織田家の章

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「墨俣一夜城の真実」などと大それたタイトルを付けましたが、読んでいた本で面白いと感じた物と自分の考えを織り混ぜながら書いていきたいと思います。 墨俣城は通説によると、「1566年、美濃・斎藤氏攻略の為に、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が奇策をもってして、墨俣の地に一夜で建てた城」となっています。 しかし、信長の家臣・太田牛一の書いた『信長公記』には、1566年の記事で墨俣築城はおろか、墨俣の地名すら出てきません。 では、いつ出てくるかと言うと「1561年、信長は斎藤義龍の死に乗じて西美濃に侵入し、州俣(墨俣)から出動してきた斎藤軍を森部付近でこれを破り、付近を放火し、州俣に城を築かせ(奪った斎藤方の砦を改修)、ここに在陣し、稲葉山城から斎藤軍の主力が出動してきたので軽海で戦闘になったが、お互い決定打がないので、双方とも引き払った。信長は州俣に帰り、御引払い(全軍撤退)なされた」と書いてあります。 つまり、墨俣は斎藤攻めの拠点となるわけでもなく、維持できる状況ですらなく、通説とはかなり異なりますが、これが墨俣城の真実に近いものであり、これを原点として秀吉(この頃はまだ木下藤吉郎と名乗っていますが、便宜上、秀吉と書いていきます)の墨俣一夜城の虚像が形作られていったと推測できます。 では、なぜ話が大きく変わってしまったのかと言うと、それは江戸時代初期に書かれた小瀬甫庵の『甫庵信長記』が原因となっているようです。 というのも、甫庵は『信長公記』に書かれている森部・軽海の戦を完全に別物の戰としてしまい、「1561年に森部で斎藤軍と戦い、一旦尾張に引き上げ、1562年に州俣に砦を築き、斎藤軍と戦った」と書いており、この時に雨が降り、川が増水した等の一般的に流布している物語の原型が出来上がっています。 そして、秀吉の名前が初めて出てくるのも甫庵の記した『太閤記』で、これには 「1566年に信長が美濃に城を築き(おそらく現在の岐南)、秀吉を城主とした」と書いてあるようで、信憑性という点では小瀬甫庵よりも太田牛一の方が高く、その辺りを考慮すると、甫庵は二つの話を創作してしまった事になります。
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