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そしてこの時、佐々政次・千秋季忠(せんしゅうすえただ)の抜け駆け部隊が今川軍に攻撃を仕掛けますが、これは散々に打ち破られ、佐々も千秋も討ち死にしてしまいます。ちなみに、この抜け駆け部隊の中に逐電中の前田利家も混じっていました。
しかし、この大誤算とも言える痛恨の一撃が、後に信長にとって吉と出ます。
この抜け駆け部隊の壊滅すらも信長の煽動作戦であったとする見方もあるようですが、この見方はただの結果論にすぎないかと思います。
ここまで両軍の動員兵力について書くのを忘れていましたが、これに関しても諸説様々であり、Wikipediaを参照すると、織田軍3000~5000人、今川軍25000~45000人(個人的には織田軍5000人、今川軍17000人)となっており、どの説を取るにせよその兵力差は歴然で、この段階での損害は信長にとって相当な痛手だったでしょう。
戰とは生き物のような物であり、常に流動的な物なので計算通りにいくとは限りません。勝てば計算されて勝ったように、負ければ過ちを犯して負けたように思い込みがちですが、実際は計算通りに事を運んでいても相手の思わぬ行動で敗北に繋がったり、逆に過ちが好機へと推移する場合もあります。これは当然の事ですが、結果論とは歴史の結果を知っているが為に犯す過ちだと思います。
さて、佐々・千秋隊は壊滅してしまいましたが、最も流布している通説によると、信長は迂回経路を取り、今川本陣へと奇襲をかけた事になっていますが、実際は中嶋砦に入ったようです。
中嶋砦は低地にあり、その近辺は今川兵だらけな上に前述したように丸根・鷲津砦も落とされていた為、信長の行動は今川方に丸見えだったと推測され、信長からしてみても行動を秘匿する気はなかったと思われます。つまり、戦術的に奇襲は頭になかったという事です。
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