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彼女に会ったのは去年の六月の二十日のことだった。
紫陽花と名乗る……いや、紫陽花と名乗ることになる少女は、梅雨の降りやまぬ雨の中。夕暮れ時、暮らし始めて一年と少しになる、おんぼろアパートの片隅に植えられた、碌に手入れされていないアジサイの花壇の横に一人佇んでいた。
最初「捨てられたのでしょうか?」と尋ねられた時は、心臓が飛び出るかと思った。
僕は、何のことだか意味がわからなくて「はぁ?」と随分と真の抜けた顔で返したと思う。
西側には関西でも有数の色街が広がり、商店街にはストリップ劇場まである、混沌とした街のことで、猫のような耳を頭にかぶったふりそでの女が立っていても、それほど違和感はない。
遠目に見たときも、同じアパートの住人が、またデリバリーヘルスでも呼んだのだろうくらいにしか思わなかったくらいだ。
とはいえ、それなくとも、薄暗い黄昏時の日の光が、分厚い雲に遮られた梅雨時期の話。
赤とも黒ともしれない、風景の中で、いやに小さい女が突然話しかけてきたものだから少しばかり驚いたとて無理もないと思う。
ましてや僕は関わり合いになりたくなくて、必要以上に俯いて歩いていたのだから。
顔を上げれば艶やかな赤い振袖の中を、一尾のふっくらとした琉球金魚が泳いでいた。
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