HELDENTUM

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妙な苛立ちに声が低くなってしまった。 それに気付いたアントン様は一度強く僕を抱き締める。 僅かな吐息が首筋を掠めた。 「アントン、様?」 痛いぐらいに抱き締められて思わず振り返った。 彼は困った顔で笑っている。 「俺は強いか?」 「え?」 「俺は本当に強いのだろうか?」 「何言っ……」 触れた指が絡めるように強張った掌を這う。 僕の手とは比べ物にならないぐらい大きかった。 そこから辿れば傷だらけの逞しい腕が見える。 「あなたが弱いのなら、この世界の人間は皆、軟弱な生き物ですよ」 世界を救った、民を救った。 それは疑いようのない事実で真実だ。 弱いわけがない。 世界中に問えば百パーセント「彼は強い」と答えが出るだろう。 だからアントン様の言った意味が分からなかった。 「ははっ、軟弱な生き物か」 「笑わないで下さい。真面目に答えただけです」 「ん、すまん」 アントン様は愛しそうに頬に触れた。 顎をくいっと持ち上げる。 見上げれば愁いを帯びた瞳とぶつかった。 「アント…んっ」 妙な不安が胸元に絡み付いて名前を呼ぼうとしたが、その前に唇を奪われてしまった。 抗うことも出来ずに大人しく口づけを交わす。 触れた唇は弾力があって柔らかかった。 同じ人間なのに自分の唇より温かい気がして心地良くなる。 窓の外は海から巻き上がった潮風で、ガタガタと音を立てていた。 *** ――それから五日が過ぎた。 彼は相変わらずの調子で墓の世話をしたり、子供たちの相手をしている。 のどかで穏やかな日々。 村人はアントン様が来ているのを知ると、わざわざ作物やお酒を持ってやってきた。 おかげで毎晩のように宴会が続いている。 「ねぇ、クリフ」 キッチンで母さんの手伝いをしていた。 村の人がどんちゃん騒ぎでアントン様とお酒を飲んでいるので、酒の抓みを作っていたのだ。 「なんだか様子が変じゃないかい?」 「え?」 「アントン様のことよ」 皿に出来たての焼き魚を盛り付けながら呟く。 「いつもは長くても二日ぐらいで帰っちまうのに、もうすぐ一週間になるよ」 「あ……」 「国の方は大丈夫なのかねぇ」 唸る母さんに僕も手を止めて考え込んだ。 確かにこんなに長居するのは初めてだった。 王様が貧しい農村で五日間も滞在して平気なのだろうか。 何よりアントン様はひとつの場所に留まってられるような人間じゃない。
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