振られた僕と、死なれた彼女

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 君は声も涙もなく泣いていた。  きっと端から見れば、全然泣いているようには見えなかっただろう。事実外面は、無表情で虚空、僕の後ろ三〇センチメートル後方を見つめているように見えた。あるいは、僕の存在が透明だと感じているかのように見えた。でもその、何らかの決意を持っているような表情とは裏腹に、君は顔をくしゃくしゃにさせ、パチンコ玉くらいの涙をぼろぼろ流しながら泣いていたのだ。身体をくの字に曲げて、まるでほえるように。  それが分かったのは、きっと僕だけだった。僕は君と同じ種類の痛みを、いわば共有していたからだ。もちろん、その痛みの種類は異なった。切り傷と打ち身くらいに異なった。強さも異なった。ねんざと骨折くらい異なった。しかし、身体の一部を削り取られるような、激しい痛みを得たという点で、僕と君は似たもの同士だった。  僕も君も、大事な人を失ったのだ。  それは失われるべきではないものだった。自転車のブレーキとかエレベーターの緊急停止スイッチみたいに、なくなっては困る種類のものだったのだ。それは安全装置であり、最後の要だった。それを失ってしまえば、真っ逆さまに転落するしかない代物だった。そして、壁だか床だかに無様にぶつかってしまう種類の代物だった。そして自身を、取り返しの付かないレベルまで損なってしまう代物だった。  僕も君も、幾度かそれを失わずにすむように出来るチャンスがあった。でも僕は中華鍋のような愚鈍さと英単語帳みたいな無関心さから、君は運命の、洗濯機のみたいな渦と掃除機みたいな騒音のせいで、それを逃してしまった。  そしてそれは、僕たちにとって致命的なものとなった。君も涙を流したし、僕も悔しさに唇をかんだ。起きてしまった事柄を、恨んだり、悔やんだり、悲しんだりするしかなかったのだ。  だから僕には、君の泣いている姿がはっきりと分かったし、泣き声をはっきりと聞き取ることが出来た。周囲の人間、上司やら同僚やら友人やら彼氏の家族やらがなぜそれに気付かないのか、僕には全然分からなかった。なぜあなた方は、事実を知っているにも関わらず彼女の本当の姿に気付かないのですか? あるいは彼女の本当の姿を見ようとしないのですか? 彼女は小さな身体を膝を抱えて丸め込んで、部屋の隅で嗚咽しているんですよ。
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