桜の男。

4/5
前へ
/63ページ
次へ
「………千陽」 あたしの耳元で呟く彼。 彼の吐息が耳にかかってこそばゆい。 「俺の名前は八神 颯」 やがみ……はやて? 「八神君?」 彼の名前を呼ぶと、心の中で反響する。 「違う。颯」 これは、呼び捨てにしろと? 心臓が激しく波打った。 恥ずかしい……。 あたしが黙っていると、彼はまた耳元で囁いた。 「千陽。早く呼んで?颯だよ。呼ばないと離さないから。早く呼ばないと誰か来ちゃうよ?」 彼はきっと、悪魔のような笑みを浮かべている。 あたしが抵抗出来ないことをいいことに。 静寂していることが、さらにあたしを焦らせる。 彼の温もりが近すぎる。 蓮が初めての人なのに、これからも蓮以外知らないと思っていた。 大好きなのに、それでもこの人を振り払うことも、逃げることもできない。 あたしは決心した。 「………は……」 小さくなってしまったあたしのか細い声。 ただ名前を呼ぶだけなのに、ただそれだけなのに、どうしてこんなにも緊張するの? 「は……?」 リピートする彼。 「はや……て」 やっとの思いで声に出すことが出来たあたし。 「うん、俺は颯。覚えとけよ。絶対に忘れんじゃねぇぞ………俺の……」 彼はあたしを解放した。 最後、なんて言ったの? そう振り返って言おうとしたら、先に言われた。 「千陽。どうして、抵抗しなかったの?」 そう現実を突きつけられた。 ドキドキと高鳴る胸は、まだ彼の温もりを覚えていて。 熱を持つ身体は、さっきまで抱きしめられていた事を表して。 ほんのり香る香水の匂いは、まだあたしを酔わせてる。 どうして、抵抗しなかったんだろう? 初対面の人なのに。 でも………それはきっと。 「八神君は人を信じてない人だと思ったから。抵抗したら、貴方は消えてしまいそうな気がしたから」 そうだ。 初めて感じたのは、そんな悲しい感じで。 きっと、この人は壊れてしまう。 壊れてはいけない人だと、思ったから。 抵抗なんて出来ない。 いや、することなんて考えもつかない。 あたしは彼を受け入れる。 「千陽のばーか」 その言葉はとても悲しそうで。 でも、それは一瞬の事ですぐに元に戻る。 「俺の名前は颯。八神君でも貴方でもない。覚えとけって言っただろ?」 彼はあたしに近付いて、額にキス。 「千陽。名前、忘れんじゃねぇぞ。じゃあ、またな」 彼は去っていった。
/63ページ

最初のコメントを投稿しよう!

57人が本棚に入れています
本棚に追加