橘和美、ヒトゴーヒトマル。

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 事の発端は、橘和美がその日、訓練本部から受信したヒトゴーヒトマルの無線通信からである。  その日、朝から橘の気分は最悪だった。  理由を挙げればキリがない。  嫌な夢で跳ね起きる。二段ベッドの天板に頭をぶつける。気分転換に宿泊所の外で套路を踏んでいたら足をひねる。湿布を貼ろうと自室に戻ろうとしたら、教官に捕まり、夕べの騒動についてたしなめられる。部屋に戻って救急箱を引き出したが、バンドエイドしか入っていない。つけたテレビの占いでは、うお座が最高だった。今日はあなたのもっとも欲しかった物が手に入ります。  朝食の時には、大事な髪飾りを落としてしまったことに気づいた。慌てて思いつく場所を隅々までくまなく探しまわったが、結局見つからず。こんな山奥に持ってくるんじゃなかった、と意気消沈して部屋に戻った時には、すでに全体集合の点呼時間を5分過ぎていた。この件で教官はいたく機嫌を悪くしたらしく、道中わざわざ長距離無線を使って執拗に小言を言われ続ける。らしくない事をするな、お前はしっかりしてるんだから皆に手本を示せ。規範、規範、規範。  そして不運な事に、第7チェックポイントにさしかかったところで、木々の切れ間から、空へのろのろとあがる赤い光を目撃してしまったのである。眩しい青空にあってわかりにくいが、光と煙と音をまき散らしながら踊るそれは、遭難発生と救難要請を表す信号弾だった。どこの班かは分からないが、ただごとではない。 訓練の実施要項によれば、信号を目撃した場合、無線管理者は直ちに時刻、発見座標、被救護者の推測所在地点、信号の示す要救護内容をまとめて、訓練本部へ報告しなければならない、と小さく書いてあった、気がする。無線管理者とは、もちろん橘の事であった。 実は最初、橘は一瞬だけほっとした。朝から頭の中を騒がせていたいろんな事を、少しだけ忘れる事ができるかもしれない、と。しかし、その思いもすぐに冷める。あの教官の事だ。無線を開いた瞬間、要項以外のことも聞いてくるに違いない。なにがあったんだ、お前がちゃんと見てたんじゃないのか、定時連絡はちゃんとしてたのか、そもそもお前ら、夕べ集まって、なに施設の人に迷惑かけてんだ。
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