半径八十三センチメートルへの侵入

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「一人暮らしなんか一生出来ないわよ」 「必要になったら出来るよ、たぶん」  楽観的な兄だ。楽観的というより疎かの方が近いだろうか。いつでも土壇場まで危機感が薄いから、直前で困ったことになる。昔からそういう人だった。兄のことはそれなりに尊敬しているし好きでもあるけれど、この部分に関しては駄目人間の烙印を押さざるを得ない。 「そうやって色んな事をなおざりにしていたら、結乃さんに愛想尽かされるわよ」  びくり。肩が跳ねる。心当たりのありそうな反応だった。 「やっぱ、そう思う?」 「思う」  即答。兄は大仰に顔を両手で覆ってくぐもった溜め息を漏らした。ずるずると床に引かれるように縮んでいき、終いにはしゃがみ込んでしまう。私の兄はいちいち反応がコミカルで面白い。  コーヒーと、紙パックで市販されていたアイスココアを用意する。コーヒーは私でアイスココアは兄。どういうわけか、私の周りには甘党が多い。兄もコーヒーなんて毒薬だと非難する砂糖の国の住人だった。 「ココア。飲むでしょ?」  砂糖の国の住人、といかにもメルヘンで子供受けしそうな名称を授けてみたものの、目の前にした兄の背にははっきりと陰が差していた。ずーん、という効果音が聞こえそうな気がするほどに。差し出したカップを力なく受けとる姿に三秒だけ同情してしまった。 「喧嘩でもしたの?」 「喧嘩じゃない」 「じゃあなによ」 「一方的に怒られたんだ」 「なお悪いじゃない」 「俺に非がないとは考えないんだな……」  面倒な兄だ。外れているわけではなかろうに。  兄は恋人にぞっこんだった。そう言うとまるで悪い女に騙されている風に聞こえてしまうが、実体は健全過ぎるくらいに健全なお付き合いだと知っている。私が小学校六年生のときだから、兄は中学三年生。何年積もらせたかは忘れてしまったけれど、中学三年生の夏に兄は長年片想いをしていた藤間結乃(とうま・ゆいの)さんと晴れて恋人同士になった。これは大いに驚くべきところだろうと思うが、結乃さんは兄の初恋の人でもある。つまり、兄は生まれてこの方結乃さん以外の人を好きになったことがないのだ。ここまで来ると最早健全なのか不健全なのかわからない。 「あら。とするともしかして、逃げてきたの?」 「そんなわけあるか」 「そう」  割りと本気でそう思ったことは黙っておいた。
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