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「珍しいわね」
「なにが?」
「帰りに寄るのも、その恰好のまま来るのも」
「ああ、うん、まあ、面倒だったから」
面倒だったから。曖昧に溢したその理由は少し腑に落ちない。しかしルナは常と変わらぬ気安さで家へ上がり込んできた。家の者よりも先にリビングへ入っていく図々しさは今更腹を立てることでもない。
「コーヒーの匂いがする」
開口一番に口にした台詞が、あたかも浮気を嗅ぎつけた妻のそれのようで、つい喉の奥で音が漏れる。
「なに?」
「別に。コーヒー飲む?」
「飲めないの知ってるのにそういう意地悪を言う」
唇を尖らせるやや幼い顔立ちの彼女は、外見を裏切らない嗜好の持ち主だ。私の好むブラックコーヒーは、彼女にとって飲料としては成り立たない。
「たっぷりのミルクとお砂糖で、どう?」
「それコーヒーって言うの?」
「言わないかもね。それで?」
「うーん……」
逡巡の後の要求はホットミルクだった。苦味を起こすファクタなど必要ではないということだろうか。
頷きで了承してキッチンへ赴いた。背後でソファーを揺らす気配がする。半秒の後にテレビの電源が入れられた。チャンネルを変える音を挟んで、知ったアーティストの歌声が耳に触れた。確か最近彼女が贔屓にしている男性シンガーソングライターだ。
「目当てはこれ?」
「まあね」
ふふっ。思わず零れてしまったというような笑みは相当な熱の入りようを思わせた。「ありがと」マグカップを受け取るとすぐに視軸はテレビへと戻る。私もソファーへ腰を下ろしてテレビへ目を向ける。二十代半ば頃だろうか。爽やかな面立ちをふにゃりと崩した笑みには親しみやすさと人の良さを感じた。中々の好男子であると思う。
こういうのがタイプなのだろうか。要らぬ思考――というか、考えたくない一文が頭をよぎってしまう。同い年だが体格や挙動からかどうしても幾分幼く映る彼女。その瞳に灯る色は無邪気な子供がヒーローに抱くそれと差がないことはわかる。わかるけれど、わかっていても受け止めきれないものはあった。人は理性で制する力を持っている。しかし本能がなければきっと生きてはいけないのだ。
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