二.女中の恋人

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二.女中の恋人

 七時を過ぎると、旅籠の中はしんと水を打ったように静まり返った。  客がいないというのは本当らしい。泊り客はただの一人もいなかった。  従業員たちも、みんな逃げるように帰って行ってしまった。  誰もいない洋館ほど気味の悪いものはないと、律は札を貼りながら初めて気づいた。  おそらく、これは異国の建築物ならではの怖さではないだろうか。  日本の古い家屋の、風が吹き抜けていくようなのどけさとは違う、無言の悪意を孕んでいるような沈黙。江戸が江戸であった頃にはついぞ感じなかった、掃き溜めのような闇の深さ。 「わっ」  階段の隅々に置かれたアルコオル・ランプがゆらめき、闇の向こう側からぞろりと影の集団がこちらに来たように見えて、律は目を見張った。  幸い、それはただの影だ。  女中の霊でも、小袖の妖怪でも無い。 「……全く、何でこんな」  ぺたりと踊り場の手すりにお札を貼りつけると、律はため息をついた。  階段のつきあたりにある柱時計は、もうすぐ九時になろうというところ。  お亮の霊が出歩かないうちにお札を貼り終えなければならないと、才空は言った。  彼は、白柳の袖とお亮の霊を、それぞれ別の結界で封じるつもりらしい。お亮は二階に、小袖の化け物は三階に釘づけにし、それぞれ決着をつけるというわけだ。  正直、律としてはそもそも結界が張れるかどうかすら疑わしいと踏んでいる。  何しろ、書いたのは自分だ。  九夜十日の肉食すら絶っていない俗物が書いたお札に、果たして霊壁を敷く効果があるだろうか。  あらゆる欲を断ち、あらゆる清めを行った者が幾晩もかけて文字を書き、最後に護摩壇の火でダメ押ししたものを、御札と呼ぶのではないのか。 (拝み屋も商売だ。仕事してますってのを雇い主に見せる事も重要なんだろうが)  二階の客室に順に札を貼りながら、律は三階に続く階段を眺めた。  階上から、かすかに才空の読経の声が聞こえてくる。 (まあでも、あの経だけは本物だな)  才空は小袖のある部屋で経文を唱え続けている。もう、かれこれ勤行を始めて三時間は経つだろうか。
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