彷徨

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「いいでしょ? お急ぎなの?」 彼女は入口に置いたスーツケースをカウンターの傍へ移動した。 「いえ、実は旅行ではなくて」 私は、この女性になら事情を話しても良いという気になった。 去年の春に……妻と両親と自宅を津波で拐われた当時は実家に寝泊まりして夜露をしのいだ。 だが、放射線量が高いという理由で、そこを追われ、仙台の兄のマンションへ身を寄せた。その三日後、兄は私に、こう告げた。 「すまんな。かみさんと娘達が気が休まらないと言うんだ。ここに五十万用意した。株を売って作った。俺の自由になる金はこれだけだ。何とか自立の道を見つけてくれ」 私は避難所を探して世話になった。 しかし、そこは愚痴と嘆きの世界だった。 泣き声が聞こえる。イビキがうるさくて眠れない。物が失くなった。泥棒が居る。臭いがひどくて鼻が曲がりそうだ。風呂はいつ入れるんだ。寒い。暖房器具を用意しろ。毛布が足りない。布団が欲しい。水ぐらい自由に飲ませろ。トイレを増やしてくれ。汚した奴に掃除させろ。ゴキブリがいる。毒虫に刺された。医者は来ないのか? これらの愚痴や不満が飛び交う中で暮らすのは苦痛だった。 日本海側の漁港には仕事があると、ボランテイアの青年から聞かされ、私は避難所を出て北陸へ向かった。
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