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episode 18 クイーンの憂鬱 ①
結局、ホテルに戻るまで九条さんは一言も発さなかった。
ポルシェのハンドルを握ったまま――頑として前方を見据え、僕の顔を垣間見る事さえしなかった。
部屋に戻ってしばらくすると、静かなピアノの音色が聞こえてきた。
バッハの『主よ人の望みの喜びよ』だ。
ロフト式になったベッドルームから、僕は階下をそっと見下ろした。
肩を落としてピアノに向かう九条さんの後姿があった。
その間も彼の携帯はソファーの上でずっと振動を続けていた。
きっと現実に背を向けることでのみ
彼はかろうじて僕をここにつなぎ止めておく事ができるんだ。
「――怒ってるの?」
演奏がやむのを待って、僕は九条さんに近づいた。
答えるより先に、細い指先が鍵盤を打ちつけた。
「ああ、そうだ!」
雑音混じりに立ち上がり、九条さんは僕をねめつけた。
「どうして何も言わずに出て行ったりするんだよ?部屋に戻って心臓が止まりそうになった」
九条さんは初めて、僕に向かって感情をむき出しにした。
「ごめんなさい。でも――」
そして僕も――。
「それはあなただって一緒でしょ?僕を眠らせておいて1人で出て行ったじゃない」
「――分かるだろ?君を面倒な事に巻き込みたくなかったんだ!」
「悪いけど――僕は従順な眠り姫じゃない。どんな時も自分の意思で行動するさ」
これが俗に言う痴話ゲンカってやつだ。
だけど僕たちの場合
ケンカするには少々足場が悪すぎた――。
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