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これまで、ボクに身近な人の死なんてほとんどなかった。あったとしても、非常に遠い親戚の死くらいだった。そんなとき、ボクはその人の死を何とも思わなかった。ボクの中にその人の記憶はないから。記憶のない人の死なんて、何とも思わない。だからボクは自身が腹立たしく思った。こんな悲しみなんて、悲しむ側の人間のエゴからくるものだとわかってしまったから。
そんな結論を見出してしまい、かえって心の中が空っぽになったような違和感を覚えながら、ボクは教室から足早に立ち去った。
白と黒が縦に縞模様になっている幕のようなものを見て、ボクは軽いめまいを覚えた。目に見えぬものが上からのしかかってきているのではないか、と錯覚してしまいそうなほど重い空気のなか、ボクは硬めの座布団の上に正座し、ポクポクと木魚を叩いているお坊さんの背中を見つめていた。
何かの呪文の様な意味のない言葉の羅列――少なくともボクにはそう聞こえた――を聞きながら、ボクはゆっくりと顔を上げた。無表情な父さんの写真がボクをみつめている。この写真を撮ったとき、父さん自身は、この写真がまさかこんなことに使われるなんて予想もしなかっただろうな。
逸らすことなくボクを見つめるその視線にいたたまれなくなって、ボクは顔を下げた。無表情で、変わらない視線――それは、何かをボクに訴えかけてきているような気がした。もう一度、ボクは顔を上げた。
ボクの頭の中にある父さんの記憶は、時が経つにつれて薄れてゆくだろう。そうなれば、父さんの存在も消えてゆくということだ。いや、父さんだけじゃない。この世にいる誰しもが、皆の記憶から消えたとき、存在も消える。だから、人は後世に名を残そうとするのだろう。
いや、この場合の“存在”とは周りの認識によるものだ。本当の“存在”とは、自身が自身の存在を感ずること――つまり、自我の認識だ。そしてその自我の認識は、自らの記憶から成り立つと言えるだろう。
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