キオク

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 ボクが夢を“見なく”なったのはいつ頃からだろうか。今よりももっと幼かった頃はどんな夢を見るのか、毎日ワクワクしていたっていうのに。だが実際は、夢を見ないことなんてないらしい。夢を見てないと思ってしまうのは、夢を見たことを忘れてしまうからだ。そういえば、昔はよくあったけか。言葉で鮮明に説明できるくらい覚えていて、どんな物語やゲームよりも面白いと思っていた夢が、起きて数十分もすればどんな夢だったのかも忘れてしまう。生まれてからこの十七年、ボクは一度たりとも自分が寝る瞬間を知らない。夜中に、“無意識のうちに”トイレに行ったりしたことも、“次の日のボク”は全く覚えてはいない。勿論、その時にボ クが本当に“無意識に”トイレに行けるはずがない。行ったときは覚えていていたっていうのに、“次の日のボク”は、自分はずっと寝ていたと思うはずだ。つまり、当たり前のことだが自らの記憶がなくなれば自分がそれをしていたとは思わないのだ。  父さんの写真を見ながら、ボクは奈落の底に落ちているような虚無感と孤独感を覚えた。自分の性格や癖というものは、記憶の積み重ねによってできている。つまり記憶とは、自我を形成しているものとも言える。もしそうならば、ボクが死んだとき、記憶を詰め込んでおく脳がなくなったときボクの自我の認識はどうなるのだろうか。今持つこの感情も、いずれは無に帰す無意味なものではなかろうか。ボクは再び視線を落とし、目を閉じた。長時間正座をしていたためか、両足から感覚がなくなっている。ボクは痺れている足に神経を集中した。もうこれ以上ネガティブなことを考えたら、心が崩れるかもしれない。ボクは必死に無心でいるよう努めた。  今日もまた太陽が水平線から顔を出した。多少の違いはあったとしても、同じような日々がこれからもずっと続いてゆくだろう。人の存在なんて、あまりにもちっぽけなものだ。その存在が何に対して意味があるのか、あるいは全く無意味なのかも、ボクにはわからない。いや、そんなことは知る必要もないことだ。だが、たった一つわかることがある。「ボクは、今、確かに存在している」と。  いつもと変わらぬ学校への通学路。腕時計をちらりと見て一つ溜め息を漏らすと、ボクは自転車を漕いでいる足に力を入れた。 〈完〉
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