その細くみすぼらしい命を繋いでいたいなら

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 クロワッサンマンは言われるまま、ゆっくりと周囲を見渡した。客入りは本当にまばらだった。少なくとも彼の見回した範囲には、裕福そうな隠居の老人が一人居眠りしている外に、人の影は見えなかった。  そのまま後ろに体を捻ると、彼のすぐ眼前の男は、舌を出して見せた。思った通りの大柄な男で、暴力を予感させる濃密な筋肉が着衣を破らんばかりに詰め込まれているのに反して、瞳には確たる知性の光を宿している。その男の舌の上には、小さなカプセルが乗せられていた。  クロワッサンマンは事の次第を承知して、またゆっくりと視線を前方に返した。 「生ハム男爵を捕縛せよ。期限の定めは無し。小官の合図あったる後に、隠密を追及しつつ現地点を離脱すべし。作戦コード『萎める花束』」  男の声には、クロワッサンマンがこれまでに経験したことのない厳粛な響きがあった。 「言い遺す事はねえか」  クロワッサンマンは尋ねた。 「そんなものがあってはいけない人生だった。誰の記憶にも残ってはいけない人間だ。最初から、私という人間は存在しなかった」 「俺はあんたを忘れない」  クロワッサンマンはなんとなくそう言った。本当になんとなく、しかし、たった一度視線の通わぬ会話をしただけのこの男に、心の底からそう思った。
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