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「今、私の人生は少しだけ“いいもの”になった。死ぬな。健闘を祈る」
そう言い遺して男は死んだ。カプセルを噛んでその中の毒薬を飲み下し、絶命と共に吐いた血液の滴る音が合図だった。
クロワッサンマンは花束を脇に抱えて席を立ち、背筋を真っ直ぐに伸ばして出来るだけ堂々と客席横の通路を歩き、劇場のロビーを抜け、ウェッジウッドの表通りに出た。それが彼に出来る精一杯の隠密行動だった。
敵はまだ花束と標的を結び付けていない。根拠は無いが、その仮説に賭けた。ならば、堂々としていた方がいい。極秘任務を帯びた秘密警察機関の特務員が、こんな大きな花束を抱えて堂々と白昼の表通りを歩くはずがない。そう思わせた方がいい。
決断することだ。岐路に立ち止まってはいけない。
脇に花束を抱えた右の手は、革ジャケットのポケットの中で、歩きながら撃鉄を起こしたヘッケラー&コッホの握把をしっかりと握っていた。
劇場を出てから背中に張り付いていた監視の気配は、通りを一本裏に入った辺りで消えた。
胸の奥が熱を持って息苦しかった。経験したことのない感情だった。
花束は、あのメッセンジャーからのプレゼントだったことにした。クロワッサンマンがそう決めたら、事実はそう書き変わるのだ。
孤児院を抜け出したあの年に、自分の年齢を決めたように。
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