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扉の出入り口の鈴が鳴る音がした。私の隣に座ってきたのは私の上司だった。
「おや、これはこれは、上司さんではありませんか」
「なんだ、マスターは私の上司と知り合いだったのですか」
私が不思議そうにマスターに尋ねると上司は笑ってマスターにカクテルを注文する。マスターはカクテルを作り出すところで、なぁと上司が私の方を向いて話しかけてきた。
「やはり君もここに来たのかい」
「ええ。やはり思い残しがあって。マスターの美味いカクテルを飲まんと行くところも行けんのです」
「思い残し? なんだいそれは、馬鹿なことは言いなさんな。もうこれからはこっちにも来てしまったことなのだ。これからもずっとマスターの美味いカクテルが飲めるってもんじゃないか」
私は少しむっとして上司を少し睨んだ。
「私はいいのです。あっちには妻も娘もいるんです。きっと私がいないので淋しがっていることでしょう。私は決めたのですよ。もう家族からは離れまいと。一人だけ生きていて何も楽しいことはございませんでした。ですから、これを機にマスターのカクテルを飲むのも最後となってしまうのです。
六年は長かったです。私は久しぶりにマスターに会えてよかった。このカクテルを飲めてよかった。あとは家族といつまでも一緒にいる。これが私の最後の望みなのです」
上司はマスターからカクテルをもらい、くいくいと飲みながら私の話を聞いてくれていた。マスターも同様、私の話を聞いていて、とても残念そうな顔をしていた。だが、マスターはほんのりと笑み、私に笑顔を向けた。
「お客様、本日でご来店は終わりとなるのですか」
「そういうことになるかな。すまないね、マスター。私は帰るとするよ」
下を俯きながら席を立ち、ポケットに手を突っ込む。するとマスターは私の肩に手を置き、また笑顔で私に言った。
「お代は結構です。さぁ、それよりも早く行くのですよ。奥さんたちが待っておられますから」
「寂しくなるなぁ。しかし、お前さんならまたきっと来てくれるだろうさ。その時まで、元気でな」
私は涙が出そうになるのを必死に堪えながら店を後にした。
カロらんかロラン。
とてもさみしい音色が店内に響いたのを、私は耳にすることなく、家族の元へ走って行った。
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