第二節 時読みの賢者

2/6
前へ
/54ページ
次へ
 ナスターシアが目を覚ますと、そこは見慣れた〈塔〉の私室ではなかった。  やわらかい寝台の感触に、うっすらと重い瞼を上げる。 (そうだ……私、〈塔〉を逃げ出してきたんだ) 「あの人のために……」 「誰だ? あの人とは」 「……!」  声はすぐ近くで聞こえた。  驚きに声の出ないナスターシアの目の前で、漆黒の瞳が二度瞬いた。 「っきゃぁぁぁ!? 何!? なんであなたここにいるのよ!」 「五月蠅い女だ。ここは俺の宮で、俺の部屋だ。むしろお前がここにいる正当性の方が薄いと思うが」  飛び起きたナスターシアの悲鳴に、男が眉をひそめて反論する。  相手の言葉はもっともだったが、状況が状況なだけにナスターシアは引かなかった。  目が覚めたら、すぐ隣にほとんど知らない男が寝ていたのだ。 「ふ、普通、意識のない女の子と同じ寝台で寝る?! そこは遠慮してせめて床で寝るとかするでしょう?!」 「お前が押しかけてきたのに、なぜ俺が床で寝なければならん。寝台で寝かせてやっただけでも、むしろ感謝して欲しいくらいだ」 「こんな目覚め方するくらいなら、床の方がマシだったわ! な、何もしてないわよね……?」 「何をだ?」 「何でもないわ」  素で聞き返してくる相手にこちらが恥ずかしくなり、ナスターシアは背を向けた。  急いで寝台から降りようとすると、十七、八歳程の少女の姿が目に入った。  それは大きな姿見の鏡に映った、己の姿だった。 「ひどい姿……」  長い金の髪はほつれ、手足は擦り傷だらけ、白い巫女装束はあちこち破れて泥だらけだ。  翡翠色の瞳に淡い落胆が映った。  〈翡翠の巫女〉――そう崇められていても、〈塔〉を出た自分はこんなにも無力な少女だ。  いや、〈翡翠の巫女〉であった時すら、自分は誰かの役に立てたのだろうか――  そう気持ちが沈んだ時、ナスターシアは、己がそんな小汚い姿で他人の寝台を占拠していたことに気付いた。  一気に顔に血が上り、先ほど怒鳴ってしまった相手に頭を下げる。 「ご、ごめんなさい! 私こんな汚い格好で……立派な寝台を汚してしまって……」
/54ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加