序章-アラクノフォビアとコンバットナイフ

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 ねちゃねちゃと耳障りに粘着く音。  そして、異形。  全身を毛で覆われた人間より一回り大きな何かがそこにはいた。  毛むくじゃらの人間の腕に見えなくもないものの先には布切れがへばりついた赤黒い肉片がぶら下がっている。腕を辿っていくと2つの袋が連なったような体に繋がっていて、そこから別の腕が7本はえていた。合計8本ある腕とも足とも取れる器官の内、下に生えた4本が血溜まりの足をついて体を支え、残った4本はどれも肉片を掴んでいた。  そいつが4本の腕のようなもので持っているのは、腕だと言い切れるものだった。それは人間の右腕を持ち、毛むくじゃらの体を鮮血に晒していた。  頭部と思われる部分が、こちらを向く。  血肉が付いた口から鎌状の牙が一対伸びていて、腕の数と同じ8つの赤い目と思しきものが並んでいる。  目の前にいるそいつを、持てる知識を総動員して特徴の似ている生物に当てはめるとすれば、それはまさしく蜘蛛だった。  一般的にタランチュラという名称で呼ばれる大型の蜘蛛だ。  しかし、目の前の蜘蛛は大型にも程がある。平均的な背丈の俺よりも大きな蜘蛛は、冷静に見なくても人間より大きい。  4本の脚を使って立つ蜘蛛は俺よりも高い位置からこちらを8つの目で見下ろしている。その身長は2mはあった。8つの足を伸ばせば体長は目測でも倍近くになるのが分かる。  瞼が無いので当然だが、複眼を含めて8つの赤い目がまばたきすらせずこちらを見つめていた。感情の無い目は無機質で、まるで生気を感じられない。機械にでも睨まれているような錯覚に襲われるが、牙から滴る唾液が間違いなく生きた生命体だと物語っている。  ありえない。  こんな生き物、存在するはずがない。  怪獣映画から飛び出してきたんじゃないかと真剣に疑いたくなる程大きな蜘蛛を前にして、俺は頭の中でありえないを連呼した。こんな非科学的な生物が現実に存在するはずがないのだから。でもいくら否定しようとも、その蜘蛛は自分の目の前に存在してしまっている。  しかも、その蜘蛛は明らかに食事中だった。  巨大な蜘蛛の下に転がるうつぶせの中年男性。服の上から見ても分かる屈強な身体つきの男は、幾人もの人を恐怖で支配してきた強面の顔を恐怖に染め上げて倒れている。いや、染まっているのは顔だけじゃない。男の体は真紅に染まっていた。
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