序章-アラクノフォビアとコンバットナイフ

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 男の体は自分の血で真っ赤に染まっていた。床を浸食するドス黒い波の正体は、男の血だった。男の体には右肩から先に腕が無く、骨と肉の断面から血が無限に流れ出ていた。  倒れる男は恐怖の滲んだ顔を凍らせて動かない。  死んでいる。  男は死んでいた。応急手当をしようとも思えないくらい、完璧に死んでいた。蘇生が間に合わないのは出血量を見れば明白で、朱に染まった部分以外の肌は月よりも青白く不気味だった。  初めて死体を見た。そんな人生でそう多くない衝撃は、更に稀な光景によって塗り替えられる。  無くなった男の腕は、蜘蛛の4本の腕の中で抉られ潰され捻られ引き千切られ、肉片がぶら下がり筋線維が剥き出しになり黄色い脂肪が滴っている。  蜘蛛は男の右腕を食べていた。  どれだけ平和ボケした馬鹿でもこれだけの状況証拠が揃えば、何が起こっているのか推理は簡単だ。特撮ヒーローもびっくりな巨大な蜘蛛が、人間を襲って殺して、捕食している。  重さの無いハンマーで脳天をぶん殴られたような衝撃に目が眩む。あまりに現実離れした光景に思考回路がついていかない。視界が回り、世界が歪む。これまで信じてきた常識が音を立てて崩れ去っていく。  蜘蛛が牙を突き立てていたであろう男の右腕は、主から切り離されて尚、その手に黒光りする邪悪な鉄塊を命綱のように握っていた。切っ先の穴をこちらに向けるそいつは拳銃だ。男は死に逝く間際、拳銃を構えこの蜘蛛に果敢に立ち向かったのだろう。結果は無駄だったが。  男の死に様を見れば、巨大な蜘蛛には、直径7、8ミリ程度の弾丸など通用しなかったのが分かる。  なら、どんな武器ならこの蜘蛛に有効なダメージを与える事が出来るのか?  俺は両手で強く握り締めたコンバットナイフを見下ろしていた。 手にしてからまだ数週間しか経っていない、語れるほどの歴史もない相棒。夜道を歩く時も、屯する不良の傍を通る時も、堅気には見えない人の前を通る時も、ゴミを漁る野犬の後ろを通る時も、この相棒がいれば何も怖いものは無かった。身に降りかかる火の粉を、消し炭すら残さず振り払ってくれると思っていた。思い込んでいた。  それだけ頼りに思えていた相棒が、今は酷く小さく見えた。
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