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闘い終えたあなたは、産院のベッドで寝息を立てている。
僕は涙がようやく止まった後も帰る気になれず、
あなたと新生児室の赤ん坊との間を、行ったり来たりしていた。
「ん~?……あれセンセ、今何時?
まだ帰ってなかったの?」
目を覚ましたあなたが、ベッドの縁にぼーっと座っている僕に声をかけた。
「あ……起こしてしまいましたか?」
「ううん。
……あ~良く寝た!
もういいよ?センセも寝てないじゃん?」
あなたは上半身を起こして、無邪気に笑う。
僕はさっきの醜態が恥ずかしくて、腫れた瞼を隠すように背を向け、少し意地悪になる。
「僕はもう陽子の先生ではありませんよ」
ちょっと間が空いて、あなたの照れたような声が返ってくる。
「……えへへ。……ごめんセンセ、下の名前、何だっけ?」
「えっ……まさか今まで知らなかった、などということは……」
思わず振り向いた僕を、あなたはバツ悪そうに上目遣いで見ている。
「……えへへ……」
「…………武志です」
憮然として、今更ながらの自己紹介をする僕に、あなたは急に抱きついてきた。
「うっそだよーん!
名前も知らないで結婚する訳ないじゃん?
何でこんな嘘に引っ掛かるかなー。
ホント、センセって面白い!」
僕の胸の中で、いたずらっぽく僕を見上げて笑うあなたを、僕は抱き締めた。
愛おしい陽子。僕も負けてばかりはいないよ?
「誤魔化されませんよ、陽子?
僕は『センセ』ではありません」
「……だって今更さぁ」
「呼んで下さい」
「……安岡さん」
「……あなた分娩室で『アタシも安岡だー』とか叫んでいませんでしたか?」
「……」
僕の胸で、あなたはもごもご言っている。
「呼んでくれるまで離しませんから」
僕は、あなたを抱く手に力を込めた。
「……し…サン」
「聞こえません」
「……たけし、サン」
「聞こえません」
「武志さん」
「…………聞こえません」
僕は、俯いているあなたの顔を上向かせた。
「……ウソつき。聞こえてるクセに」
赤い顔のあなたが、責めるような目で僕を睨んで、唇を尖らせる。
今、僕を呼んでくれたその唇……
指先でなぞって、僕はそのまま触れるだけのキスを落とした。
「愛しています。陽子」
「……えへへ。……ありがとセンセ」
「センセではありません」
「……意地悪」
あなたは、更に赤くなった顔を僕の胸に埋めて、僕を抱き締めてくれた。
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