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この看板を見る度に、僕は自分の不幸を思い出す。
太い毛筆で書かれた、達筆で力強いタッチを感じさせる『怪談部』の文字。
古い傷と日焼けの後が歴史を感じさせる一品。
値打ちは定かではない、だが非の打ち所がない怪しさが、この変哲もないはずの屋上で異彩を放っている。
さらに看板の下には、小さなホワイトボードが遠慮気味に吊り下げられ、小さく丸みを帯びた字でこう書かれてある。
“ 怪談の買い取り、下取り、承っております ”
ホワイトボードの表、つまりこの宣伝文句が見えていると言うことは、この物置部屋の家主が既に中で鎮座している事になる。珍しい事に僕より少し早めに到着し、中で何かをしているようだった。
…………。
僕は身だしなみを確かめる事にした。
まず、昨夜までは目元を覆うほどまであったはずの黒髪を触って整えてみる。
伸ばしに伸ばした髪を思わぬタイミングで、それも前髪だけを大幅に失ったのは昨夜の事。
不慮の事故と呼ぶべきか、事件とも自業自得とも呼ぶのも間違いではないのだろうけど、どちらにしろ思わぬタイミングで切られてしまったせいで、不格好な日本人形のような一直線の前髪に、僕はすぐ堪えられなくなった。
明朝、低血圧で不機嫌を隠すことなく丸出しにした妹に、ハサミを握らせるという向こう見ずな強硬手段にて、髪を短く切り揃えてもらった。
出来上がったのはショートの髪型。
出来上がった後で、酷く後悔した。
妹にハサミを握らせた事や、そのセンスにではない。
久しく見ていなかった髪の短い自分の顔が、思った以上に成長していなかったのだ。
昔々という程でもない五年前、「若かった頃の母さんにそっくりだよ」などと、譲り受けたくもなかった遺伝子の順調な成長を父親に告げられて以来、僕は髪を伸ばし続けていた。
父の意志に添って髪の長かった母の姿を後追いしたわけではない。ただ母に似ていると呼ばれる顔を、誰かに見られるのが堪らなく嫌だったからだ。
だから僕は髪を伸ばしに伸ばして顔を隠すことに成功していた。
しかしそんな僕を守っていた黒壁が、いとも容易く切り落とされた、昨夜。
現れた顔は、やはり母に似ていた。
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