プロローグ

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それが太陽光線の加減なのか、眼精疲労によるものなのか定かではないが、晴天の夏空をずっと見上げていると、その紺碧の空が徐々に赤みを帯びてきて、紫色に変化してしまうのをあなたはご存知だろうか。高空をゆっくりと流れる純白の雲の峰も、いつの間にか薄いピンクに染まっている。 だが、この赤っぽい紫の空が虚構で、普段垣間見ている青空が真実の色なのだという保証は、どこにもないのだ。そもそも人間のちっぽけな脳が識別できることなんて、たかが知れているのだから。 そんなことを考えながら、桟橋のベンチにもたれていた背の高い男は、滴り落ちる汗をぬぐうと、炎天の空からエメラルドグリーンの海に視線を移した。 はるか彼方に黒点のように見えていた船影は、やっと、はっきりとした連絡船の形を現した。 沖縄諸島の外れにある、この嗚浜島(おはまじま)は、人口五百人にも満たない小さな離島で、唯一の交通手段が、午前と午後の一日二回、定期的に回って来る連絡船のみであった。 日焼けを拒否するように、体を覆ったトレンチコートを、潮風にひるがえしながら、ベンチから立ち上がった男は、端正な白い顔を、背後に建っている乗船用待合室に向けた。 「センセー!そろそろ船が着きますんで、身支度の方お願いしますよ」 大声で男が呼びかけると、待合室からノートパソコンを小脇に抱えた小太りの男がよろめきながら出て来た。 「ああ、とうとう一ページも書けなかった」 小太りの男が、嘆くように言った。 「だいたいこんな、なんにもない所で、アイディアが浮かぶはずがないのだ」 まんなか分けの長髪をかき上げ、奥二重のギョロリとした目で、背の高い男を見上げる。 「なに言ってんですか。ど~せカンヅメになるのなら、人のいない離れ小島がいいと言い出したのは、センセーじゃないですか」 「うるさいよ!」
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