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ギオンショウジャのカネのコエ、というやつか。昔の勤務基地で倣った言葉だから、意味として正確かどうか分からないけど。自分から手放しておいて、何を言っているのやら。
自らの仕事も、自らの国も、あまつさえ自分の妻さえ、なにもかも。
捨て尽くすように捨て尽くし、磨り切るように磨り切って、表し見えるいまのぼくはこんなもの。まったく、情けなくて反吐が出そうだ。
しかし反吐を吐くよりも先ず、やるべきことがぼくにはある。
――ところではぼくは、果たしてぼくなのだろうか。悪い夢でも見ているのではないだろうか。
というのも、これは現時点に於いて職業病のようなもので、漁火のようにぽつりと浮かぶだけの考えに過ぎないのだけれど、しかし黙って見過ごすことは、きっとぼくが許さない。まあいいさ。祭りの前の最後の余興に、こんな思惑もありだろう。
ぼくは尽きかけの煙草を灰皿に押し付ける。手慣れた具合に火種も消えて、白煙の残滓が宙を舞う。
果たして、ぼくはぼくなのか。そりゃあ確かに、小さい頃から今の僕まで、欠けた記憶はあるにしても十全に辿ることは可能だ。
平均値をとる為に生まれてきたような学校の成績だって、なかなかヴィヴィットに憶えていられるわけだし。他ならぬ自分の事なら、やはり自分が良く分かる。
けれど、記憶がその人をその人として記憶していてくれるのだろうか。ぼくの記憶はぼくだけのものなのだろうけど、ぼくはぼくとして記憶に記憶されているのだろうか。
一応、言うまでも無いことなのだろうけど、記憶にそうするだけの意思があるか、という話しでは決してない。それよりももっと、機械的なはなしだ。
ぼくはぼくとしての記憶を有するが、その記憶は〝その瞬間〟のぼくが記憶――敢えて言うなら記録――した出来事、体験した事象だ。今のぼくでは無い。
ぼくは敵国に亡命し、自国の偵察機の機密を売って、さらに彼の地で妻までめとった。そのどれもが帰結したのがぼくであるが、しかしそのどれもを経験したぼくはぼくではない。
厳密に言えば、〝いまの〟ぼくではない。こうしてしがないカフェテリア片隅で、胡乱に揺れるブラックを啜るぼくでは、決して無い。
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