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「また、君は早いんだね」
砂利をこすったような低い声が聞こえる。びっくりして振り返ると、地学の綿貫先生がいた。
先生は、準備室のドアから頭を出し、白髪混じりの後頭部をこりこりと掻いている。
「先生も、いつもより早いんですね」
と返すと、先生は、立つ瀬がないな、と呟いた。
「穴ぐらも夏の間はやっぱり暑いですか」
と、笑いながら言ってみる。先生は、しみが浮かんだ眉間を微かにしわだたせて笑った。
綿貫先生は、六十を少し過ぎた老教師である。定年退職した後も、後任の地学教師がいなかったため、臨時教員として私の高校で教えている。骨ばった体に緑のチョッキを着ていて、髪もまだ豊かである。
先生は、いつも、たいていの先生が集まる職員室ではなく、埃臭い地学準備室でコーヒーをすすっていて、授業が始まりそうになると、のっそりと、教室のはじから体をのぞかせる。それが狸の穴倉から出てくる動作と似ているのだ。体型が似ていないのに「たぬき先生」と呼ばれているのは、綿貫という苗字のせいだけではないのだろうなと、授業のたびに思う。
だから、私は地学準備室を「たぬきの穴ぐら」と呼んでいる。穴倉は地層や地学となかなか近しい。思いついてすぐふさわしいあだ名だと思った。
その穴ぐらから出てきたたぬき先生は、ずんぐりとした鼻に手をうつし、鼻頭をつまむように掻きながら。
「他の子らとは来ないんだね、やはり」
と尋ねる。
あ、やっぱりたぬき。
「まあ、いつもどおり」
苦笑しながら私が答えると、そうかい、と先生は不快そうな顔をして、くしゃみをし、ティッシュをとりに、穴ぐらへ帰っていった。
苦笑の意味を悟られただろうか、と思いながら、アンモナイトの頭をなぞる。先生がつけたのだろう。いつの間にか明かりがついていて、アンモナイトは先ほどより柔らかな土色に光っていた。
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