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したたる汗が、和美の顎をくすぐるように伝って口元から離れ、眼下に密生する樹々の洪水の中へと落ちていった。
汗は次々と垂れては口や目の中に入ろうとする。
和美は拭うこともできなかった。
手という手が塞がっていた。
伸び切って震えている右腕の先に、一人の少年の手を握っていた。
少年は今、和美の手を、唯一の命綱としている。
二人は滑落した崖の半ばにいた 。
「た、橘さん、腕、大丈夫」
唇を真っ青にしているくせに、少年はそんなことを聞いてくる。
とはいえ、その声がうわずって舌も回っていないのは、少年も絶体絶命の恐怖を感じているからだ。
それはそうだ。
この手が離れてしまえば、少年の体は数十メートル下の樹々と山肌とに、容赦なく叩きつけられることになる。
少年は下を見ようとはしなかった。また、下を見ることができる体勢でもなかった。和美の手と岩肌からのぞいている古い木の根を掴んでいる左手以外、少年の体は、まるっきり空中に投げ出されていたのだから。
そして和美の目には、この手が離れたら最後、少年の体の向かう先が、嫌というほど見えていた。
黙ってなさいよ。
そう言うのが精一杯だった。
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