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* * *
彼はその瞳の中にただ彼女だけをとどめて、微笑んでいた。
なぜだかその微笑みには、いつもの皮肉の影ひとつ、見つけることができない。
彼女にはそのことがひどく寂しいことに思えて仕方がなかった。
「エルリーゼ」
彼の形の良い唇が、ふたり佇むこの場にやさしく彼女の名を刻む。
「キミにはふたつの選択肢がある。
そのどちらを選ぶこともキミにだけ与えられた権利であり、キミにしか果たせない義務だ。
どのみち━━」
この道はどうしてこんなにも暗いのだろう。
蛍のように立ちのぼる燐光だけが、ふたりの姿をささやかに照らしているばかり。
ふいに泣きだしたい気持ちが喉元をよぎって、彼女はつよく唇を噛みしめた。
「‥‥なにかを喪うことに変わりはない。
キミが気に病むべきことがあるとすれば、それは」
『第三の選択肢だけは選ぶべきでないということだけだ』、彼の言葉の最後の部分だけは、耳にではなく頭の中に、身体の内側(なか)に響いたような気がした。
━━見透かされている‥‥。
彼女がどちらの選択肢も選ぶことができなくて、すべてを投げ出してしまいたい衝動に駆られていることを。
いつしか目線は下を向く。
彼女だけをまっすぐに見つめている彼を、見つめ返すことが怖くて。
マルセイユは、ずるい。
いつだって自信満々で、余裕の笑みで正しいこたえを押し付けてきたくせに。
どうして今だけ、突き放したように距離を置いたまま、すべてを自分にゆだねようとするのだろう。
渦巻く胸の内の想いは、彼女の口をつくことなく、のろのろとした一歩を無意識に踏み出させただけだった。
「それが‥‥キミのこたえなんだね?」
はっと顔を上げたときには遅かった。
彼の背中はすべてを了解したように遠ざかっていく。
「ま‥‥っ」
とっさにこぼれた音はしかし、言葉にはなりきらない。
『キミとの誓いを、ボクは守れたんだろうか? エル‥‥』
闇の中から、かすかな囁きが淡い光を揺らめかせ、消えた。
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