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わたしは公園のトイレの個室で、ひとり息を詰めている。
うなじの、首のうしろの窪んだ辺りがやや汗ばんでいる。
口で息をしているのだろう。浅くせわしない息をはいている。
とりあえず深呼吸して気分を静めようとしたときだ。
エナメルのバックの底でいきなりスマートフォンが鳴った。
心臓がどきりとし、思わずたじろいだ。息がとまった瞬間だった。
とたんに腹立ちを覚えた。なにもこんなタイミングで。
腹立ちが億劫にいれかわり、バックをひらく気にもなれず、無視を決めこんだ。
耳触りなバイブの音が、静まりかえったトイレの室内に響く。
この振動の音を聞きつけて、誰かやってこないか、そんな不安も覚えた。
着信のバイブが鳴りやむまで、わたしは動けずに凝固していた。きっと、さぞ間抜けな表情をしているだろう。
個室からでて、自分の貌を鏡でたしかめたい衝動に襲われた。
かろうじてこらえ、黒いエナメルバックの取っ手をぎゅっと握りしめた。
壁にもたれかかり、やや内股で俯き加減でやりすごしていると、だんだん景色がもどってきた。
わたしは狭い個室をざっと見わたした。
黒のマジックペンだろうか。角ばった太い線やら、細いのやらで、淡い桃色の壁のあちこちに、落書きがされていた。
なかには直截的にきわどいものも散見できて、最近の女の子もこういうことを言っちゃうのね、と、ひとりで納得し、頷いていた。
殴り書きされた有象無象を目で追いかけているうちに徒労に気づき、途中で虚しくなった。
床のタイルに視線をおとし、周囲の気配にそれとなく耳を澄ます。
平手で打たれた右耳の奥がじわりと籠って熱を孕み、幽かな違和を残している。
気持ちが波立って、かるく足踏みをした。
女性用の編み上げワークブーツの底が噛みしめる砂利、きしむような音が耳に届いた。
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