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「さあ、マリー。時間だよ。」
普段の呼び名で呼ぶ兄の声が耳に届く。
マルグリットは自分と同じ黒髪を流した背の高い青年を見下した。
茶色の瞳と自身の緑の瞳が交差し、見つめ合う。
温厚でいつも優しいこの兄とももう会えないのだと思うと、少しさびしく思った。
「はい、お兄様。それでは行って参りますね。」
「着いたら手紙を書いて送ってくれ。それと、辛くなったらいつでも帰ってきていいんだよ。」
「まあ、お兄様ったら。心配性ね。」
マルグリットはくすりと笑って彼女の兄を揶揄する。
まるで幼子に言い聞かせるような口調をいささか不満に思ったものの、
いかにもその彼らしい気遣いはとても嬉しく、素直に分かりました、と答えた。
―そのうちに、静かに馬車は動きだす。
馬が蹄を鳴らして進み、がたんと音を立てて車輪が回り始めた。
「マルグリット、元気でね。」
にこりと笑顔を返す兄と母。それと、泣き笑いのような表情を浮かべる父。
たたずんで手を振っている家族がだんだんと遠くなっていくのを見て、マルグリットはどこか物憂げにため息をついた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。このルビアがついておりますから。」
「……うん。」
そんな彼女の様子を見て、王宮での生活を憂いているのだろうと解釈した侍女は、なだめるように優しい声をかける。
瞳をちらちらと揺らしながら外を見つめるマルグリットの両手をきゅっと握った。
「王宮はとても広く、美しい場所と聞きました。きっとすぐに住み慣れることでしょう。国王陛下もまだ若く聡明であると皆言っております。優しいお方にちがいありませんわ。」
向かいに座るルビアがそう諭すのを聞き、マルグリットもそうね、と答える。
が、彼女は侍女の思惑とは全く別のことを考えていた。
――王宮か…少しは面白いことがあればいいのだけれど。
後宮にあがるという緊張感は皆無、
それどころか観光にでも赴くかのような心持ちであったことは、もちろん彼女自身の他は誰も知らなかった。
かくして、マルグリット・セシーリア・ウェリントン嬢を乗せた馬車は王城へと向かったのであった。
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