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空になったグラスを、一枚板で出来た重厚感のあるカウンターに戻し、続けざまに頼む。
「マスター、シーブリーズ頂戴」
軽く頷き手を動かす、マスターの流れるような身のこのなしに、暫く見惚れる。
ステアする短く切り揃えられた爪の、しなやかな指を、触ってみたいと思う。
「おまたせ」
音もなくコースターに置かれるグラスと、頼んだ覚えの無いチョコレート。
首を傾げながらマスターを見れば、爽やかな笑顔が降ってくる。
「お客さん、今日は元気の無い顔してるから、俺からのサービス。女の子は、甘い物好きでしょう?」
そう言い残して、定位置に戻って行く。
女の子、30代半ば過ぎのマスターから見れば、私は女の子の部類かと苦笑いしながら、チョコレートを一つ口に入れる。
ほろ苦い甘さが口に広がり、それが妙に今の心境に重なり、涙が零れそうになった。淡い桜色のカクテルを見れば、自然と一秋との思い出が頭に浮かぶ。
終わった事なのにと思っても、それは止めれなかった。
街が緑と赤に彩られ、寒さが一段と厳しくなる頃、私 上里愛理(かみざとえり)は城川一秋(しろかわかずあき)と出会った。
あれは、高校時代の友人数人に呼び出され、飲みに行った時だった。
仕事が終わらず、こんな日に残業かと嫌気の差す中、懸命に仕事に集中し、待ち合わせ時間を少し過ぎた頃、仕事が終わった。
取り敢えず連絡を入れようとしたところ、携帯はバッテリー切れ、ついてないと会社を出てそのまま車で向かう事にした。
本当なら車を置いて行きたい処だが、遅れている上に、明日も仕事で、出勤の事を考えれば置いて行く気にもならず、今日は飲めないなと残念に思いながら、ハンドルを握った。
待ち合わせの店の近くに車を止め、急ぎ足で店に向かう。ふと空を見上げれば、冬の星座が輝いていた。
店の前に着き扉を開くと、五月蠅い話声と笑い声に迎えられる。
自然と眉間に皺がよる。友人達と良く利用する店なのだが、この五月蠅ささが私は好きになれない。
それに、今日は一層五月蠅い感じがする。溜息を吐きながら1歩中に入れば、ムワリとした熱気に包まれ、冷えていた顔に血の気が戻る感じがする。
キョロキョロと辺りを見渡すが、友人達の姿が見えない。
店を間違えたか?
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