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「今日は顔色が悪いね、マリア」
あたしの偽の名前を呼ぶ彼の優しげな目が曇る。
二つの澄んだ黒い目の中には、怯えた顔つきの女が立っていた。
「そうかしら?」
何て酷い顔だ。
口の端をきゅっと上げると、彼の瞳に居座る女は、今度は引きつった笑顔になった。
「今日は、部屋に行く前に……」
彼はそう言い掛けると、目を逸らした。
――今の君は、見るに堪えない。
そんな心の声が聞こえる気がして、あたしは背筋が寒くなる。
だが、次の瞬間、通りを見据える彼の目がパッと輝いた。
「あの店で、お茶でも飲んで行こうか」
二区画先には、新しいカフェがある。
この前二人で映画を観た帰りに寄ったが、上海に数多あるカフェの中でも最高の部類だと思う。
ただし、彼が払ってくれるとはいえ、紅茶一杯の額は、普段のあたしの一食分よりも高い。
「それがいいわ」
今度は自然に見える様にと念じながら、笑顔を作って頷く。
腕を組み直すついでに、それとなく彼のシャツの袖口から覗く腕時計を確かめる。
二時半を回った所だ。
ボスの指示は五時。
あの部屋に連れ込むまで、あと二時間半は恋人でいられる。
強まる午後の日差しを浴びて、彼の腕時計の文字盤に嵌め込まれた丸い玻璃(ガラス)が冷たく光った。
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