忘れられない

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「だ・か・ら。私の名前を覚えてないってことですよ!!」 ボクに伝わってないと思ったのか、カノジョはもう一度繰り返した。そんな必要はないというのに。 「名前…」 なまえ、ナマエ、名前。確かにボクは、カノジョの名前を知らない。知る必要もない。そりゃ、名前を知らないと色々と不便なことが起こり得る可能性があるが、今日まででカノジョの名前を知らなくて困ったことは一度もない。少しもない。 それなのに、名前を知らない程度の理由でカバンをぶつけられる。逆に言えば、曽我の魔の手から守ったのだから感謝されても良いと思う。のだが、それをこの場で言ったら状況を悪化させかねない。 ボクは、重役の大事にしていた数億円もの壺を割ってしまった社員が、重役に詫びるように謝る。 「ごめん。そういえば、そうだったね。最近、あることにずっと悩まされていてね」 悩み事の詳細をあえて言わないボク。もし言ったとしたら、キミに悪い気がしたから。 カノジョは意外にも「そうですか」と、あっさりボクの誠意ある謝罪を受け入れてくれた。そして、その引き替えと言わんばかりに問いてきた。 「悩み事とはなんですか?」と。 友情や善意で、悩み続けているボクを助けようとカノジョは訊いたのかもしれない。だが、このような展開になるなら名前を覚えてないことを責められる方のが、まだ良かった。というより、謝罪に真実味を持たせるために本当のことを混ぜたボクが悪いのか? 「そうかもしれない。…きっと、そうだな」 「何か言いましたか?言うなら、もっと大きな声で言ってください」 「いや、何にも言ってないよ」 もっと大きな声で、まるで小1の教師のようだ。 さっきは考えすぎるばかりに言葉が出ていってしまったが、以後気をつけよう。と思っても、またあるのだろうけれど。 カノジョは、ボクが悩みを打ち明けるのを待っている。もう自分の名前を覚えてもらえなくていいのだろうか。 数秒間の沈黙さえもボクの心を痛めつける。 適当なことはカノジョに通用しないだろう。それに、通ったら通ったで、いつバレてしまうだろうと怯えて暮らすようになる。考え過ぎだと分かりきっていることだが。 「え~っとね」とポリポリと痒くもない頬を掻きながら発するボク。 カノジョの態度は相変わらず静か。ボクの頬に衝撃を与えたときと違って…。
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