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6月12日、午前9時29分。
妻が息をひきとった…。
享年57歳。
妻はわたしに延命を誓い、強固な意思をあらわに強い言葉で言った、
「絶対に60歳の誕生日までは生きるんだから!」
しかしその言葉の裏側に、彼女の身体に密かに棲みつき、蝕み続けてきた悪魔に浴びせかける悲痛な叫びと共に、『生』にすがり付く『助けて!お願いだから助けて!』悲痛の叫び声でもあり···
おのれの死を間近に、病に濁らせた痛々しい瞳に哀しみを滲ませ、
「英ちゃ···」
干し魚のように痩せ果て、自慢だった細く長い指も節だってまるで枯れ枝···うす茶けた剥がれかけた爪を小刻みにぷるぷると小さく震わせ、
「英ちゃ···」
目やにの混じった涙が少しずつ雫のように、落ち窪んだ目尻から垂れだす、それでも尚私を気づかうように痩けた頬に笑顔を浮かべた···。
それは、明日へ繋ぐ命の希望を捨てず、生きる為にあらゆる治療に挑み、この世の全ての人々の不幸と痛みを背負ったと思うほどの恐ろしい時間を生き···
あれほど美に固執し、美を追い続けてきた妻、
恨んでも恨みきれないその悲惨な容姿の変貌···
彼女自身が病という悪魔と闘かい、苦しみながらも頑張り抜いた妻の壮絶で短い人生の幕切れだった…。
ステージⅣ、スキルス系胃ガン、転移部、腹膜、リンパその他多数…。
余命10ヶ月と告知されてから、1年と6ヶ月目のことでった…。
その日は、銀杏の大木の若い緑葉が騒めいて、重なり合う葉の隙間から漏れ差す陽のひかりがキラキラッと揺れる眩しい朝であった、
病院は総合病院で、増築を重ねたせいか、4階建てに5階建が覆い被さるように何棟も連なっている、
玄関のなだらかなスロープを抜けると広い空間に出る、
ここには受付、調剤薬局があり、壁に掛けられた何枚もの油絵はみな畳1枚はゆうにある大作である、
待合室の一壁面は、巨大なガラスケースに塞がれている、この中な納められ展示されているのは、病院の伝統と歴史、その一族を物語る代々の品々である。
ガラスケースの真向かいの窓側には、先先代の胸像が威厳ある風貌で高い台座鎮座している、
広い待合室には、2台のテレビ向かって横4列に縦8席に並ぶ長いビニールの待合の椅子、明るい橙色で綺麗に磨かれたシルバーの金具で縁取られていた。
ここから一本道の廊下を渡ると外来患者用の売店と食堂に突き当たる、
この売店を軸に廊下が何本かに分かれている、廊下に貼られた赤、青や黄色のテープに沿い、案内板に従って歩きだすと迷路に迷わず、内科、外科、整形外科、婦人科、小児科、放射線科等の診察室や検査室、歓談室、病室に続くエレベーター等に到着出来る、
病棟の建物は広い中庭を囲んでコの字形に建っていた、
中庭を包み囲うように植えられたソメイヨシノの新木、
まだ膨らみきれない小さな赤い芽を見て妻は言った、
「ずっと生きていたいなぁ…」
まだ肌寒い四月の半ば、春の木漏れ日の中にわたし達は生き抜くと信じこみ、人間の生命力を不思議事のように信じていた。
わたしの押す車椅子は中庭のレンガ道をカタカタと揺れながら進んでいく、
大きな銀杏の緑葉に陽が翳り暖かな優しい木漏れ日があたる場所…
永い年月と雑草に隠れてしまった古い煉瓦道…
妻のお気に入りの場所であった、
妻とわたしの1日は、いつも早朝のこの散歩から始まった…
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