― 指宿(いぶすき)の章 MOON ―

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良いと悪いとか、好きと嫌いとか、それらはお互い双極を成すものではなく「良い」の反対も「悪い」の反対も「好き」の反対も「嫌い」の反対も「どうでもいい」だとよく言われる。そのとおりだとおれは思う。良いとか悪いとかの結論を求めた時点でベクトルは合っている。その結果が良いのか悪いのかはあくまで結果や価値観でしかなくて、全く相容れない可能性がある、どこまで行っても交わらないようなものではない。つまり好きも嫌いも《ちょっとズレたベクトル》であって、《絶望的な逆向きのベクトル》ではない。 その点おれの持っているベクトル、特に仕事において抱えている感情というベクトルは彼らとはおよそ交わる可能性がない。おれは全てが「どうでもよい」のだから。 「良いのか?ちょっとの理不尽さはあるだろ?朽津木研究室がお得意になっているのだって、ここ数年の話だ。その間の担当はキミだったわけだ。最初の契約にこぎつけるまでのハードルや日々足を使って通い続けた成果としてお得意様関係が続いているわけだから、言い換えればキミの成果じゃないか。それを取られるだなんて納得いかないだろ?周囲にもそれでは示しがつかない」 これの9割は杉浦の言葉なのだろう。ありありとわかる。 「はぁ……」 その後はまた、今度は何分だったんだろうか、途中で数えるのが面倒になってしまうくらいの間おれの仕事に対するスタンスやこれまでの成果量、営業努力、身だしなみ、口調、製品知識、エトセトラ。途中でもうすっかり引いてしまって(実際、電話口から50センチくらい離れて)ただただ聞き流していた。この人はおれをどうしたいのか?フォローしたいのか?けなしたいのか?励ましたいのか?へこませたいのか?わからないのは当たり前だ。この人に意見なんてないのだから。それならば流してくれればいい。周囲の流れに沿って流してくれればおれはそこを流れていくのだ。 自分の意見を持たない電話口の相手と、万事「どうでもよい」と思っているおれではケリがつくわけがないと判断して切り出した。 「……あの……大変申し訳ないのですが……一旦現状として、しばらくお時間をいただけませんでしょうか……」 伝家の宝刀だ。「一旦現状」がポイントで、最終的にはこれから生まれる《現状》の流れに任せれば良いのだ。 恫喝課長にもこれはそれなりに効果があったようで、その後の小言はプラス10分程度で済んだ。
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