― 指宿(いぶすき)の章 MOON ―

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1 「これで終わりじゃないからな。覚悟しておけよ」 取り調べの警官の口から漏れるありきたりでクソッタレな台詞に腹を立てる元気も今のおれにはない。ここへ連れてこられた時は、付き添いの警官をブン殴りパトカーのドアを蹴り飛ばしすぐにでも逃げ出したいくらいだった。 しかし実際、今は警察署の前で呆然としていた。とりあえず解放された。まずはその安堵感を噛み締めた。目の奥が重くぼうっとしている、あまり物事を考えられない。 「おい、あまりここにいるなよ。釈放されたならすぐ帰りなさい」 守衛から声をかけられる。 「あ、はい、すいません……」 背を曲げ、消え入るような声しか出ない、が…… 今だけだぞ、散々取り調べで消耗させやがって、第一、何時間拘束されたんだ。たかが満員電車でバカ女が悲鳴を上げたくらいで。思い出すだけでムカムカする。 しかも何の根拠でおれなんだ。みんなあのアホ女の言うことをあっさり信じやがって。周囲のクソ連中も乗せられて口々に勝手なことばかり言いやがった。 「やだ、毎日見る人だよ。痴漢だなんて」 「最低だな」 「明日から乗る車両変えなきゃ」 「キモッ」 「痴漢はバレないようにやらなきゃー」 「まったく、迷惑なことしてくれるよね」 「おい、否定してみろよ、この野郎」 「犯人の写メ撮って流そうぜ」 「ちょっと女の方タイプだった」 「いっつも怪しいと思ってたんだよね」 「捕まって良かったー」 「なんで痴漢って小太りの汗かきが多いかね」 「やっぱ人間顔に出るっていうか」 「トモくん勇気あるね、痴漢捕まえるなんて」 「あ、私もあいつにやられたことあるー」 「やっぱりサラリーマンってどこかストレスがあってさ」 「見たとこ30代?人生終わってるってカンジ」 お前ら何の確信があって優良な一般庶民のおれを卑下するような目で見てやがるんだ。おれが痴漢なんてチンケなことやるわけねぇだろ、この愚民どもが。 極めつけは鉄道事務所から警察に連れて行かれる際のあのメス豚の言葉だ。 「お巡りさん、そういや、あいつまだ捕まってないどこだったかの殺人犯にそっくりじゃない。ほら、ちょっと前まで手配書あったじゃない。ちゃんと調べた方が良いですよ」 なんだその事件は、なんだその手配書は、痴漢冤罪の上にさらに汚名をかぶせようっていうのか、お前のどこにそんな権利があるんだ。
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