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 非ユダヤ系で残った友人といえば、二十年来の親友、アーリア人のランドルくらいなものだ。  昔は二人つるんで、人生の甘いも辛いも共有したものだった。  だが今では、その友人宅のドアを叩くことすら命がけである。  そしてその日、エゼルは数ヶ月振りにランドルの家を訪れていた。  広くはないが、雨漏りするエゼルのボロ家に比べれば、ずいぶんましな家だ。  ランドルの部屋で安酒の瓶を開け、二人で呑むのも久し振りのことだった。  天井から吊るしたランプに火を入れ、傷だらけのテーブルで向かい合う。  明かりに照らされたエゼルの顔は年齢以上に老けていた。 「近頃は酒も高くていけねぇ」  ランドルは薄い水割りを一気にあおって言った。  金髪碧眼は昔の特徴を残しているが、すっかり中年太りで腹が出ている。  対するエゼルは生活苦と心労から痩せこけ、髪に混じる白の割合もひどいものだった。  漆黒の目は闇のどん底を映し、とても同い年の二人には見えない。 「そんな高いものを馳走になって悪いな」  エゼルは縁の欠けたコップを持ち上げ、削げた頬にえくぼをつくった。  その仕草は自嘲を含み、ランドルに「遠慮するな」と言わせる原因にもなった。  しかしそれ以前に、法律でユダヤ人が酒を飲むことは禁止されている。  細かいことを言うなかれ。  この家の中までは法律の手も及んでいないのだ。 「なぁ、国外に逃げたらどうだ?」  互いの苦労話と愚痴を吐き出して、政治に泣いたり怒ったりして話が途切れた時のことだ。  ランドルが静かに切り出した。 「ユダヤ人が次々とナチス軍に連行されてること、知らないってわけじゃねぇだろ」 「……ああ」  口にアルコールを含みながら、エゼルは連絡のつかなくなった親戚のことを思い出した。  結婚して家を出た上の息子も、一向に帰って来ない。  ナチス軍に捕まったのかもしれないし、奴らから逃げ隠れているのかもしれない。  いずれにせよ、この治世下においてまともな生活をしているとは考えにくかった。  だからといって、そう簡単に国外逃亡できるものではない。 「国外、か。昔はともかく、今はユダヤ人にビザを発行してくれるところなんかないさ」  エゼルが溜め息をついたのも、無理ないことだった。
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