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ぱんっ。
両手のひらを打ち鳴らす音が、深夜の宿屋の一室である畳部屋に響いた。行灯一つさえも置いてなく、布団も敷かれていない。
しかし、雲が晴れ月明かりが部屋を照らしたその部屋には人が居た。
人のみてくれの齢は四十四、五であろうか。黒の法衣を身にまとい、室内だというのに笠を目深に被り、錫杖を抱えて座っている。
法衣の下に見え隠れする腕は骨太であり、齢の割には髭は生やさず。笠の下から覗く髪は赤く、白髪が混じっている。
彼は瞳を堅く閉じ、まるで瞑想しているかのごとく。月明かりが照らした畳部屋の床に転がるのは幾本もの酒瓶。
ばたばたと階段をあがる音が聞こえたかと思うと、引き戸が開き、部屋を見渡すように提灯の明かりが照らした。
「法師殿! 鬼が出ました! 法師殿! 酒臭っ! 法師殿、起きてください!」
騒ぎ立てるのは提灯を持った男。腰には刀を差している。笠を目深に被った法師は「お勢(せい)……晴子(はるこ)ぉ……」と女性の名を口にしながら男に抱きついた。
「私はお勢でも晴子でもありません! 高楠 八郎(たかくさのはちろう)でございます!」
はっと法師は即座に八郎から離れ、口を抑えながら絶句する。絶句した後出てきた第一声は「男じゃねえか……」と涙混じりの震え声。どうやら寝ぼけ眼だったらしい。
「ああもう、法師殿! 早く来てください、鬼が村に!」
ぐいぐいと法衣を引かれ、赤毛法師は宿屋から外へと引きずり出される。その鋭くつり上がった両の目には、曇りがかった灰色の光が灯っていた。
「まあ安心しなせぇ、八兵衛とやら」
「八郎です」
赤毛頭を笠で隠しながら八郎の肩を叩く法師に、彼は法師の間違いをすぐに訂正する。
「まあ細かいことはいいだろうよ高藪九兵衛とやら。もう鬼はいないんだ」
「だから八郎! 何それっていうか誰ですかそれ! って……え、でもさっき警鐘が鳴って村の通りで鬼が暴れてて――」
次の瞬間、八郎の言葉が途切れた。
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