1.アフター・イエスタデイ

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「失われた家」について語るには、僕は途轍もない時間と体力が必要になる。 エメラルド色に輝く海に臨む崖の上にある一軒家。嘗て教会だった建物を改装して作った家は古びているけど、広くて温かい場所だった。古びた木造だから所々軋むし、大雨が降った時には天井から雨漏れしたりして大変だったんだ。 常夏とはまではいかないけど、夏の澄み切った青空と冬のくすんだ曇り空のどちらかしかない場所で僕は生きてきた。潮風はいつも肌をチクチク刺して、塩っ辛い風味を口の中に残していく。崖から降りた所にある砂浜で海水浴をするのは日課だった。ジンジンと焼き付ける陽と正反対の冷たい波を浴びるのは気持ちよかったし、浮力を受けた体は宇宙飛行士になった気分にさせてくれた。 社会の外れで、社会の頸木も無い場所で、僕は無意識に自由を謳歌していた。 当時は無意識だったのに、何故今自由だと云えるのかというと、 、、、、、、、、、、、、、 今の僕にはそれが無いからだ。 あの頃の僕は今からじゃ考えられないくらい満ち足りていた。物心ついた時には家族に捨てられていて、失われた家で育てられてきた。家族がいないという事は、恐らく君達からしたら酷く重大な事実なんだろう。だけど当時の僕はそんな事を全く気にしていなかった。一緒に暮らしている仲間達みたいに、無秩序で無邪気な子供達やそれを温かく見ている一人の大人が僕にとっての家族だったからだ。 院長をしていたチェチェリア先生はちょっとケチで厳しい人だけど、料理はおいしいし、とても優しかった。一緒に暮らしていたスヴェインや他の皆も気が合って、一緒にいて楽しくて、たまに喧嘩してもすぐ仲直りできるくらい、気心の知れた仲だった。 あの頃の僕らは何でも出来た。遊びも勉強も出来た。世界のほんの片隅にあるちっぽけで誰も気にも留めない世界で走り回っているだけで、僕は世界の全土を踏破した気分になれた。 つまみ食いをしてはいけない。喧嘩したら謝る。嘘をついてはいけない。物を盗んではいけない。 あの頃の僕らを縛る戒律なんて、こんな程度のものに過ぎなかった。 何の疑いも不安も無い空気のような自由が、僕は永遠に続くと思っていた。
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