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――あの人があんな事をしたのは、私の痛みに苦しむ姿が耐えられなかったからなんです。
「そうですね」
若い医師は頷きながら振り向く。
青紫の花霞の中に、黒い影が佇立している。
あの老人は、本当に全てを忘却したのだろうか?
遠目だと、同年輩の青年と見紛う様な、肩幅の広い、長身の後姿だ。
それを眺めていると、医師の中には疑惑が際限なく湧き出してくる。
まだ、野原の勿忘草が固い蕾だった頃、あの老人は妻を抱きかかえて雪解けしたばかりの水の流れる川に飛び込んだのだ。
末期癌の妻を薬で眠らせ、縄で自分の体に固く縛り付けて、だ。
あと五分でも発見が遅れていたら、確実に二人とも溺死していた。
あの時は、自分を含めて病院の皆が驚いた、と青年医師は思い出す。
それまでは、誰もが彼を、病妻を辛抱強く看病する、心優しい、穏やかな、良識そのものの老人だと信じて疑わなかった。
妻の余命がもって半年だと告げられても、あの老人は取り乱す様子も見せず、恐るべき冷静さで受け止めたかに周囲の目には映っていた。
それが、まるで周到な脱獄犯さながら、俺たちの目をすり抜けて心中しようとしたのだから。
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