1:Love Me Do

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「帰って来なくていいからな!」  それが「行ってきます」のあいさつに返されたいつもの言葉だった。椎名恵美はもう慣れたとは言え、継母に見られないように顔をしかめ、黙って玄関のドアを開けた。闇夜の空よりどす黒い憎悪を込めた継母の言葉が背中に追い打ちをかける。 「なんだ、その親を親とも思わない態度は?あんたなんか家の中にいないのが一番だよ!」  あんたに親を名乗る資格があるのかよ。そう思ったがもちろん口には出さなかった。恵美は無言のまま玄関を出て、紙屑が散らかっている廊下を歩いてコンクリートの階段を降りた。  あちこち表面が剥げかけた外装の鉄筋コンクリートの団地。そこは低所得者専用の都営住宅。住んでいるのはみな、恵美の家のような貧乏人ばかり。若い頃から夜遊び好きで、職を数年で転々と変えている父親の収入は、恵美にも想像がついた。今はどこかの工場で派遣の警備員をしているというが、いつまで続くことかと思っている。  バス停にたどり着いて財布の中を確かめて、恵美は一瞬顔が真っ青になり、そして溜息をついた。しまった、またやられた、と思った。昨夜はバイトからの帰りが遅くなり、部屋に入るなり倒れこむように寝入ってしまった。だから、財布をバッグに入れっぱなしだった。いつものように枕の下に敷いて寝るのを忘れた。  てきめんに、千円札が四枚入っていたはずの財布は空になっていた。幸い小銭は残っていたからバイト先まで行くのは大丈夫だが、帰りは歩いて帰るしかなさそうだ。継母が夜中に部屋にこっそり入って来て財布の中身を抜いたのは分かっていた。
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