1:Love Me Do

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 これで夜まではあの家から離れていられる。そう思うと心底ほっとした。バスの中にはこれから家に帰るのだろう、小学、中学、高校の学生がちらほら見えた。みんな明るい表情をしている。それはそうだろう。学校という時にはつらい場所から自分の家という、安心できる場所へ向かっているのだから。  あたしの場合は正反対だ、と恵美は思った。家の中が一分一秒もいたくないこの世の地獄で、学校やバイト先が安心していられる場所。家が自分の安心できる場所、一刻も早く帰りたいと思える所。そんな当たり前の生活がどうして自分にはないのだろう?  駅に近いバス停で降り、大通りから一本奥に入った少し狭い通りに恵美のしばらくの安住の地はあった。今どきよくつぶれずに残っていると感心するような古い作りの喫茶店。看板にはわざわざ「純喫茶」という文字があり、店名はカタカナで「クオリーマン」。  恵美がちょうど一か月前からバイトしている店だ。小さな店で従業員用の裏口などはないので、正面のドアから入る。 「マスター、椎名です、入ります」  そう声をかけるとマスターは相変わらずカウンターの中から退屈そうな顔を見せ、あくびを噛み殺しながら答えた。 「おっと、もうそんな時間か。じゃあ、今日もよろしく頼むよ」
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