初段

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 待望の秋風が日本橋川に沿って魚河岸に吹き込んだ。長い夏で弱った魚河岸は途端に水を得た魚の様に賑わい取り戻す。今日も千両の金が動く。  小網町の代書屋の弥次郎は朝のひんやりとした空気を月代(さかやき)に受けながら魚河岸を歩いていた。  市場では刻々と落ちてゆく魚の値と懐具合の駆け引きが続いていた。丁々発止の掛け声が飛び交った。  魚河岸に多少なりとも縁のある者なら、弥次郎を見掛けて挨拶をしない者はいない。それに一々笑顔を返しながら、弥次郎は江戸の活気を楽しんでいた。  不意に、覚えのある気配を感じた。その男を人混みの中に見付けたのである。  その男もまた弥次郎をじっと見ていた。魚を求めているのではないことは明らかであった。  互いに互いと認め合った。お互い会釈を交わすでもなく、袖振り合い、だだ通り過ぎて行った。  弥次郎が男を初めて見たのは、けっして他生ではなかった。  然る武家屋敷で寝息を立てていた弥次郎は、その男の気配を感じて目を覚ました。  男が弥次郎の床の横を音も無く進んで行く。もちろん家中の者ではない。  弥次郎は寝た振りをした。恐れたのではない。殺気は迫って来ない。ただの興味であった。何しろ初めて遭遇する賊である。  男は、まるで小判の臭いに吸い寄せられる様に、金の在り処に迷うこと無く直行した。懐に小判をずしりと据えると、男は見事に踵を返した。  弥次郎は、その金が無くても困らなかった。父は倹約家ではあったが、必要な金は惜しまなかった。仮に、その金を女遊びに使ったと言っても、渋い顔一つで許してくれる。母は二三日小言を言い続けるであろうが、それはそれで取り立てて嫌ではない。男に金をくれてやるつもりであった。  「よろしいんですか?」  男が弥次郎から少し距離を置いた所で足を止め囁いた。  「構わぬ」  弥次郎は目を閉じたままであった。  「参ったな」  男はくるりと弥次郎に向き直って片膝を突いた。いつでも逃げられる身構えである。  「参ることはあるまい」  弥次郎は目を開けて男を見た。  「これじゃ、施しだ」  男は懐から小判を包んだ袱紗を取り出して、畳の上に置いた。男が扱うと不思議と小判が鳴かない。  「施しは嫌か?」  弥次郎は一層、男に興味が湧いた。  「ええ、嫌でございます」  男は、その場で胡坐を掻いた。  「ならば、何か見返りに置いて行け」  弥次郎はにやりと笑った。
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