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返事がない。整った顔立ちが、より冷徹に他人を寄せ付けない雰囲気を出している。彼女は俺が差し出した右手をじっと見詰めるばかりだった。これは果たして、どういった意味をもつのか。お前に名乗る名などない、という決裂の意を押しだしているのか、それとも相手に名を名乗り、手と手を握り合うという風習を知らず困惑しているだけなのか。どちらにしても、俺のこの先の苦労が目に見えるようだった。しばらくその体勢のまま固まっていると、彼女に動きがあった。
「……吾輩は具現体である。名前はまだない」
……。
これはどう解釈すれば良いのか。何故急にお札に載っている人の作品の中でも一、二を争う有名な作品の冒頭をオマージュしたのか。そもそも本当に名前がないのか。解らない。ここまでの状況すらも危うかったのに、ここにきて更なる謎を叩きつけられようとはよもや予想だにしていなかった。
(ふむ。二人の仲も順調のようだな……では我はしばらく休む。あとはうまくやってくれ)
「おい、ヴィクター……ヴィクター!」
もう、言葉は帰って来なかった。
その時、階下から母親の声が響いてきた。
「千早~、起きてる~? ご飯できてるわよ~。食べるならさっさと下に降りてらっしゃい」
枕元の目覚まし時計に目を移すと、既に午後八時を回っていた。意識を失ったのが午後三時頃だったのを考えると、あれからかなりの時間が経っていたようだ。
「とりあえず……ご飯食べるか? 腹、減ってるだろ?」
名も知らぬ少女に問うと、彼女はこくりと頷いて下に降りる俺に付いてくる。ダイニングへ向かうと俺を待たずしてもしゃもしゃと飯を喰らっていた両親が目を点にして彼女を眺めた。
「か……母さん、千早がこんな時間に女の子を……!」
「お……お父さん、しっかり! まだ傷は浅いわよ!」
息子が女の子を一人連れてきたくらいで、こんなコントを始めてしまう両親に溜め息を吐き、呆れていないだろうかと少女へ目を移す。すると彼女はすっと床に正座をし、三つ指を着いて恭しく頭を下げていた。
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