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◇
「やっぱ人妻には見えねェよなー」
「そんな、無理に褒めなくていいって」
「いや、ガチだって。オレ、ガチでオセジとか言わねェタイプだしィ」
こうして褒められたのは、これで何度目だろう。私と彼がこの駅前の喫茶店に入ってから約一時間が経つが、会話は終始こんな実の無いやり取りが続いた。
そして、本人は隠しているつもりなのかも知れないが、会った時から今までずっと、私を性欲の捌け口としか見ていないのはその言動からも明らかだった。
それでも、いや、だからかも知れない。年下の若い男に褒められて、不謹慎にも嬉しく思えてしまう。
そもそも、私に彼を批難する資格は無い。私の目的も彼と同じようなものだったから。
馴染みの店の、いつもの席。
本当は落ち着くはずの場所なのに、これから起こる事を思うと、目眩と共に全く別の世界に迷い込んだような錯覚に襲れる。
それは、今こうして最悪の形で夫を裏切り始めた私が味わっている、この、心がすり潰されそうな罪悪感と、そんな感情ごとこの身を溶かしてしまいそうな高揚感のせい。
そして、ふと、初めてこんな事をした時の記憶が頭を過ぎった。これと似た感覚に襲われた記憶が。
あの時は純粋に、『いけない事をしている』という罪の意識に押し潰されそうなだけだった。
けれど今の私は違う。変わってしまった。
この状況を楽しみ、これからの行為に期待して、身も心も昂らせてしまっている。
良心の呵責ですらも、逆に欲情と言う名の炎を燃え上がらせる為の燃料にしてしまう程に。
変わってしまう前の自分。そして過ちを犯す前の自分も思い出して、また胸がギシリと痛む。
罪の意識にどんなに小さく潰されても、私の良心は決して消えて無くならない。
それは消えるどころか、すり潰されて小さくなればなる程それを守る外皮を剥がされて行き、今ではまるで剥き出しの鋭敏な痛覚神経をサンドペーパーで削るかのように、痛みは増していた。
でも…………これで、良い。
“彼”も私も、こうなる事を望んで“ここ”を選んでいるから。
恋人同士だった学生時代の。そして、夫にプロポーズされた大切な場所の思い出が詰まった――“この店のこの席”を。
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