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   週末を控えた金曜の、よく晴れた昼下がり。  ちょうど一通り家事を終えた頃を見計らったように、それは聞こえてきた。  ベートーヴェンのピアノソナタ第14番。その第一楽章。  『月光』の呼び名で知られるその曲が。  それは私の携帯の鳴らした、“彼”からのメールを知らせる受信音だった。  深く静かな水底を想わせる厳かな曲調とは裏腹に、その曲を聞いた私の中では、眠っていた生々しく熱いものが釜首をもたげる。  ひそかに心待ちにしていたこのメール。携帯を持つ指先が軽く痺れていた。    いつもの様に、あの時の時間にあの場所で。  液晶に浮かんだ、用件を伝える為の二人だけが解る一文。  そんな暗号めいた短い一文に、どこか詩的なものを感じて、ふと口元が緩む。  今鏡を見たら、きっと私は妻では無く女の顔をしているだろう。  ――また“彼”に会える……。  私は携帯を置くと、はやる気持ちをなだめて支度を始めた。
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