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「おや、こんな昼中まで何処へ行っていたんだい?」
廊下を歩く自分を、不意に見付けるは伊吹。見事な六本角がゆるりと揺れ、闇夜の如き黒髪が音無き音を立て。
…… 私の意識は混濁している。
― 確か、陽が真上に来るまでずっとあの鬼に……
犯され続けて……
静々と、警戒心無く近付いてくる其の鬼に、何か行動しようと言う思いも、声を掛けようとも思うこと無く。
しかし、何故か勝手に身体は動き、頬が笑みを作る感覚がする。
「見付かっちまったか、」
零された声は自分のものに在らず。酷い違和感を覚えたが、込み上げる吐気の如き其れはすぅと馴染んでいく。
「眩しい中の散歩も良いもんだ。
一緒に、今から行くかえ?」
「否、止めておくよ。"茨"、」
酷く柔らかい声と笑みで、私を呼ぶ。
― …… "私"を、呼ぶ?
其の名は、私の名であったか……?
「もう寝よう。俺は眠いよ」
「風呂に入ってからな?お前も一緒にさ」
「甘えん坊め、……?」
ふと、伊吹の顔が私の喉元へ。すん、と軽く嗅いだ後、人ならぬ目がすと此方へ向き。
「……そう言えば、茨。あの人間は如何したのだい?」
「さぁ?帰ったんじゃあ無いかえ?」
「嘘だねぇ、美味そうな匂いがするよ?」
長い舌が、喉元をつぅとなぞる。
「ヒトのえぐみが苦手と言うて今まで食うた事無かったお前が、あのヒトは食いたくなる程と」
「何じゃ、妬いておるのかえ?」
「ちいと、な。其れに、
…… 今までの策が、総て無くなってしまったよ」
言うなり、……ガリ、と鋭い痛み。其のまま皮膚が破かれる感覚。
伊吹の、妖しく舐めずる舌に、長く鋭い牙に、血。さも美味そうに笑んだ鬼の冷たい眼と、鎖骨をつうと伝い落ちる自分の命の温度が、ぞく…と腹の下辺りを震わせる。
― ……嗚呼、この鬼は怒っておる……
何と愛おしい双眸……
見てくれているよ、この……
……"俺"を……。
「さて、如何してくれようかな……
少しばかり気分が悪い」
「あの"ヒト"が居なくなったからかえ?
嫌だよ、俺を見て?ねぇ、」
「…………。
お前の其の意地の悪さだけは好きになれないよ、茨。
食欲を我慢しておった俺が馬鹿であった…… 悪いが、一人で眠ろう」
興が冷めたかの如く。呆気なく踵を返した愛しき背を、俺は只見送り。
其の姿が屋敷の角へ消え行った辺りで、先程から止まらぬ下腹の疼きを、爪立てて堪える。
「…… なァ、折角お前を食うで無く、魂ごとこの鬼神の一部にしてやったと言うに。
早々にばれてしまったわえ……お前が其んな匂いを撒き散らすから」
先程まで混濁していた別の意識は、最早氷が溶けるかの如く馴染み、一つの"俺"となっている。
先程思い付いた大きな目的の為にそうしたとは言え、其れはとても愉快で、または酷く快感で。
「……まぁ、良いか」
愛する者で発散出来なくなってしまった下腹は、ギリギリと誇張しながら既に泣き始め。
やがて、俺は声を漏らして笑った。
笑いが、止まらなかった。
酷く愉快だ。
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