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烏玉(ぬばたま)の 蜜に揺蕩(たゆた)空蝉(うつせみ)や」 黒い樹液の絡みついた蝉の抜け殻を見て、『エス』という名の少女は詠った。 もうじき“それ”は訪れる、と――。 苔色に染まる鬱蒼とした谷底に、黒く聳え立つ大きな洋館はあった。  深い森がざわめく。 滲んだ汗が首を伝う。 蒸された緑が鼻を侵す。 不快な感覚の中、少年は初夏の熱気に揺らめく奇妙な少女を前に、片手に持ったメモ用紙を見返した。 住所はあっているはずだ……というよりは、この一帯に家と呼べる物はそれのみで。 洋館を背景に立っていた少女に確認する。 「きみが、“エス”?」 腕利きの心理カウンセラーと聞いていたけれど、随分と幼く見える。 いや違う。 顔は大人びて見えるほど整っているのだけれど、背丈は子供のように小さく華奢なのだ。 纏っている着物は威圧感を感じるほど高貴な物らしいというのに。 言葉を失ったまま疑問符を泳がせている彼に。 「名前というのは、訊ねるよりもまず自ら名乗るものぞ?」 少女に注意され、少年は慌てて無礼を訂正する。 「ごめっ……俺はマシロ。大鳥磨白(おおとり ましろ)……です」 敬語を遣うべきなのか否か、それすらも曖昧で。
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