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食堂の入口の自動ドアを進む一人の青年に、玉藻は思わずあっと声をあげそうになった。
くたくたになったショルダーバッグを引っ提げ――一見するとみずぼらしい様に思われるが、程良くダメージを与えたジーンズとややくたびれた感じのシャツを羽織っているためそこまで気にならない――少しだけ前屈みで歩く青年。眼鏡の奥に潜む眼光は、底知れない知識を窺わせる。
その名前と姿を、玉藻は偶然ながら知っていた。
「蒼、火原さんと友達なの? あれ、火原さんって三年生じゃ?」
「俺は一浪してるからな」
一浪している事実も意外な話ではあったが、火原の存在がそんな瑣末な事を吹き飛ばすくらいのインパクトを、玉藻に与えていた。
それもその筈――
「火原さんって言えば、五月さんのバンドに歌詞提供してるでしょ?」
「……ああ」
「五月さんも部で一番うまい先輩だけど、その魅力を引き立たせるあの歌詞! あたしもあんな歌詞を書いてみたい!」
バンド内で歌詞の作成を担当している玉藻にとって、同業者の側面も持つ火原は憧れるべき存在でもあるようだ。
当の本人は、そんな会話が聞こえている筈もなく、仏頂面で蒼兎へと歩み寄っていく。
「カイ、悪いな」
「……どうしたんだい?」
ぼそっとした喋り声が食堂内の音楽と化す。一瞬、玉藻はその声の主が目の前の彼であることに気付かなかった。
「買い物行かない? 服の……」
「断る。今日僕は試験だからね」
にこやかに話しかける蒼兎の言葉にも、つれない返事で返す。そしてあっさり踵を返そうとするが、蒼兎がその手を掴んだ。
珍しい事なのだろう、火原が少し目を丸くして振り返った。
「嘘だ。実は、おまえに頼みごとがある」
「……大方、君のバンドに歌詞を提供して欲しいとか、そんなところか?」
「いや、ウチには優秀な作詞者がいるからいい」
にやりと笑いながら蒼兎が玉藻をちらりと見遣る。火原は全く気付いていないが、玉藻はトマト並みに赤くなっていた。
だが、これ以上赤くなる筈がないと思っていた玉藻にとって、予想以上に予想外な言葉がこの後降りかかることになる。
「確か、玉藻……雫だったかな? 彼女もいいセンスを持っていると思う。静、いい作詞者を捕まえたな」
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