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シトシトと強くもない雨が降る日の夜五ツ頃、傘を差した男が一軒の町家の戸を叩いた。
暫しの無音の後で…戸の内から微かに衣擦れの音が聞こえる。
「へぇ。どちらはんどす?」
控えめな女の声を聞いた男は、傘を閉じて、小さく横へ振って露を払った。
「僕です」
カタン、と木を外す音と共に、戸を一気に開け放ち中へ入ってしまう。
「冷たい雨どっしゃろ。風邪…引かんようしなアカンえ?」
再び戸締まりした女は傘を受け取り、代わりに手拭いを渡して奥へ上がった。
「お松さん、桂さんは居ますか居ますよね」
「居てますえ。あと…もう一人お客はんも。熱いお茶でよろしおすの、栄太はん?」
「ええ。渋い―……」
「へぇへぇ」
渋い茶を、と言いかけて止めた事に苦笑しながら、お松は厨に向かう。
「…」
栄太は少しムッとしたが直ぐに大きな溜め息を吐き、奥の部屋の襖を…スパーンッと開いた。
「やはり君だったか…」
火鉢の前に座る少し疲れた顔をした桂は、来客の顔を見るなりガックリと項垂れる。
「失礼しますよ」
「…入る前に言いなさいって…何度言えば…全く君達は」
手拭いで、羽織に付いた雨粒を拭いながら襖を閉めて、火鉢を挟み、桂の向かいに座った。
「東行も居るなんて驚いた」
栄太は首だけ横へ回し、縁側の方を見て笑う。
「…久しいな、無逸」
縁側の障子を少し開け、暗闇を見つめていた…東行と呼ばれた男は、静かに障子を閉めたが、桂達と距離は取ったままで向き直った。
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