第一章 ニブルヘイムの番犬

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 フィリアの張り切りように少し引きながら、リヒトは屋上に備え付けられた椅子を引き寄せ腰を下ろす。すぐにふわりと白い布が首の下に回され、首の後ろで止められた。 「あれ、髪を濡らしてくれたのね」 「ああ、そのほうが切りやすいだろ?」 「うん、リヒトの髪は癖がないから、そんなに違いはないかもだけど、こっちのほうが綺麗に切れる気がするわ。ねえ、長さどの位がいい?」 「肩に掛からない程度に」 「初めてあった頃位かな」 「うん、その位がいいな」  シャキンと、控えめなハサミの音が響く。ハラハラと肩口に切り落とされた黒髪がこぼれていく。 「ねえ、リヒトは……なんで髪を染めているの?」 「黒が好きだし、こっちのほうが仕事に都合がいいだろ?」  小さな声で遠慮がちに問いかけられた声に、リヒトは一瞬逡巡し、そう答える。本当は違う。そしてそれはフィリアも解っているだろう。髪を切りたいのなら、専門店に切りに行けばいいのだ。グニパヘリルの南部に行けば、いくらでも美容院はある。だけどそれはしない。自分に関するどんな些細な情報でも、スルトの外へ出したくない。 過去の自分の顔写真は、グニパヘリルでは見かけることはほぼないが、トスカネルでは街中に貼りだされている。そして、トスカネルとグニパヘリルは決して行き来できない距離ではない。 今髪が濡れているのも、フィリアに切ってもらう前に、髪を染めなおしていたからだ。  教会調査員の目がどこにあるか分からない。コマドリの、一部の所属員にだって恨みを買っている。ほぼ死亡認定されているとしても、どこから自分の情報が漏れるかも分からない。昨日だって、黒髪の審判者とニアミスしたのだ。  シャキン、とまた染まった黒髪がこぼれ落ちていく。 「私ね」 「うん?」 「私はね、リヒトがどこの誰だって、リヒトの事、とても大事よ」 「……」  一言一言、区切るようにして告げられた言葉は少し震えていた。  シャキン、とまた澄んだ音が朝の空気に溶ける。  ありがとうと、リヒトは、―――――かつてカインと呼ばれた青年は呟いた。
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